正文 第8节
大きくなったように感じられた。
六月に二度c僕は永沢さんと一緒に町に出て女の子と寝た。どちらもとても簡単だった。一人の女の子は僕がホテルのベッドにつれこんで服を脱がせようとすると暴れて抵抗したがc僕が面倒臭くなってベッドの中で一人で本を読んでいるとcそのうちに自分の方から体をすりよせてきた。もう一人の女の子はセックスのあとで僕についてあらゆることを知りたがった。これまで何人くらいの女の子と寝たかだとかcどこの出身かだとかcどこの大学かだとかcどんな音楽が好きかだとかc太宰治の小説を読んだことがあるかだとかc外国旅行をするならどこに行ってみたいかだとかc私の乳首は他の人のに比べてちょっと大きすぎるとは思わないかだとかcとにかくもうありとあらゆる質問をした。僕は適当に答えて眠ってしまった。目が覚めると彼女は一緒に朝ごはんが食べたいと言った。僕は彼女と一緒に喫茶店に入ってモーニングサービスのまずいトーストとまずい玉子を食べまずいコーヒーを飲んだ。そしてそのあいだ彼女は僕にずっと質問をしていた。お父さんの職業は何かc高校時代の成績は良かったかc何月生まれかc蛙を食べたことはあるかc等等。僕は頭が痛くなってきたので食事が終るとcこれからそろそろアルバイトに行かなくちゃいけないからと言った。
「ねえcもう会えないの」と彼女は淋しそうに言った。
「またそのうちどこかで会えるよ」と僕は言ってそのまま別れた。そして一人になってからcやれやれ俺はいったい何をやっているんだろうと思ってうんざりした。こんなことをやっているべきではないんだと僕は思った。でもそうしないわけにはいかなかった。僕の体はひどく飢えて乾いていてc女と寝ることを求めていた。僕は彼女たちと寝ながらずっと直子のことを考えていた。闇の中に白く浮かびあがっていた直子のやcその吐息やc雨の音のことを考えていた。そしてそんなことを考えれば考えるほど僕の体は余計に飢えcそしで乾いた。僕は一人で屋上に上ってウィスキーを飲みc俺はいったい何処に行こうとしているんだろうと思った。
七月の始めに直子から手紙が届いた。短かい手紙だった。
「返事が遅くなってごめんなさい。でも理解して下さい。文章を書けるようになるまでずいぶん長い時間がかかったのです。そしてこの手紙ももう十回も書きなおしています。文章を書くのは私にとってとても辛いことなのです。
結論から書きます。大学をとりあえず一年間休学することにしました。とりあえずとは言ってもcもう一度大学に戻ることはおそらくないのではないかと思います。休学というのはあくまで手続上のことです。急な話だとあなたは思うかもしれないけれどcこれは前々からずっと考えていたことなのです。それについてはあなたに何度か話をしようと思っていたのですがcとうとう切り出せませんでした。口に出しちゃうのがとても怖かったのです。
いろんなことを気にしないで下さい。たとえ何が起っていたとしてもcたとえ何が起っていなかったとしてもc結局はこうなっていたんだろうと思います。あるいはこういう言い方はあなたを傷つけることになるのかもしれません。もしそうだとしたら謝ります。私の言いたいのは私のことであなたに自分自身を責めたりしないでほしいということなのです。これは本当に私が自分できちんと全部引き受けるべきことなのです。この一年あまり私はそれをのばしのばしにしてきてcそのせいであなたにもずいぶん迷惑をかけてしまったように思います。そしてたぶんこれが限界です。
国分寺のアパートを引き払ったあとc私は神戸の家に戻ってcしばらく病院に通いました。お医者様の話だと京都の山の中に私に向いた療養所があるらしいのでc少しそこに入ってみようかと思います。正確な意味での病院ではなくてcずっと自由な療養のための施設です。細かいことについてはまた別の機会に書くことにします。今はまだうまく書けないのです。今の私に必要なのは外界と遮断されたどこか静かなところで神経をやすめることなのです。
あなたが一年間私のそばにいてくれたことについてはc私は私なりに感謝しています。そのことだけは信じて下さい。あなたが私を傷つけたわけではありません。私を傷つけたのは私自身です。私はそう思っています。
私は今のところまだあなたに会う準備ができていません。会いたくないというのではなくc会う準備ができていないのです。もし準備ができたと思ったらc私はあなたにすぐ手紙を書きます。そのときには私たちはもう少しお互いのことを知りあえるのではないかと思います。あなたが言うようにc私たちはお互いのことをもっと知りあうべきなのでしょう。
さようなら」
僕は何百回もこの手紙を読みかえした。そして読みかえすたびにたまらなく哀しい気持になった。それはちょうど直子にじっと目をのぞきこまれているときに感じるのと同じ種類の哀しみだった。僕はそんなやるせない気持をどこに持っていくこともcどこにしまいこむこともできなかった。それは体のまわりを吹きすぎていく風のように輪郭もなくc重さもなかった。僕はそれを身にまとうことすらできなかった。
風景が僕の前をゆっくりと通りすぎていった。彼らの語る言葉は僕の耳には届かなかった。
土曜の夜になると僕はあいかわらずロビーの椅子に座って時間を過した。電話のかかってくるあてはなかったがc他にやることもなかった。僕はいつもtvの野球中継をつけてcそれを見ているふりをしていた。そして僕とtvのあいだに横たわる茫漠とした空間をふたつに区切りcその区切られた空間をまたふたつに区切った。そして何度も何度もそれをつづけc最後には手のひらにのるくらいの小さな空間を作りあげた。
十時になると僕はtvを消して部屋に戻りcそして眠った。
*
その月の終りに突撃隊が僕に螢をくれた。
螢はインスタントコーヒーの瓶に入っていた。瓶の中には草の葉と水が少し入っていてcふたには細かい空気穴がいくつか開いていた。あたりはまだ明るかったのでcそれは何の変哲もない黒い水辺の虫にしか見えなかったがc突撃隊はそれは間違いなく螢だと主張した。螢のことはよく知ってるんだcと彼は言ったしc僕の方にはとくにそれを否定する理由も根拠もなかった。よろしいcそれは螢なのだ。螢はなんだか眠たそうな顔をしていた。そしてつるつるとしたガラスの壁を上ろうとしてはそのたびに下に滑り落ちていた。
「庭にいたんだよ」
「ここの庭に」と僕はびっくりして訊いた。
「ほらcこcこの近くのホテルで夏になると客寄せに螢を放すだろあれがこっちに紛れこんできたんだよ」と彼は黒いボストンバックに衣類やノートを詰めこみながら言った。
夏休みに入ってからもう何週間も経っていてc寮にまだ残っているのは我々くらいのものだった。僕の方はあまり神戸に帰りたくなくてアルバイトをつづけていたしc彼の方には実習があったからだ。でもその実習も終りc彼は家に帰ろうとしていた。突撃隊の家は山梨にあった。
「これねc女の子にあげるといいよ。きっと喜ぶからさ」と彼は言った。
「ありがとう」と僕は言った。
日が暮れると寮はしんとしてcまるで廃墟みたいな感じになった。国旗がポールから降ろされc食堂の窓に電気が灯った。学生の数が減ったせいでc食堂の灯はいつもの半分しかついていなかった。右半分は消えてc左半分だけがついていた。それでも微かに夕食の匂いが漂っていた。クリームシチューの匂いだった。
僕は螢の入ったインスタントコーヒーの瓶を持って屋上に上った。屋上には人影はなかった。誰かがとりこみ忘れた白いシャツが洗濯ロープにかかっていてc何かの脱け殻のように夕暮の風に揺れていた。
僕は屋上の隅にある鉄の梯子を上って給水塔の上に出た。円筒形の給水タンクは昼のあいだにたっぷりと吸いこんだ熱でまだあたたかかった。狭い空間に腰を下ろしc手すりにもたれかかるとcほんの少しだけ欠けた白い月が目の前に浮かんでいた。右手には新宿の街の光がc左手には池袋の街の光が見えた。車のヘッドライトが鮮かな光の川となってc街から街へと流れていた。様々な音が混じりあったやわらかなうなりがcまるで雲みたいにぼおっと街の上に浮かんでいた。
瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱くcその色はあまりにも淡かった。僕が最後に螢を見たのはずっと昔のことだったがcその記憶の中では螢はもっとくっきりとした鮮かな光を夏の闇の中に放っていた。僕はずっと螢というのはそういう鮮かな燃えたつような光を放つものと思いこんでいたのだ。
螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か軽く振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけcほんの少しだけ飛んだ。しかしその光はあいかわらずぼんやりしていた。
螢を最後に見たのはいつのことだっけなと僕は考えてみた。そしていったい何処だったのだろうcあれは僕はその光景を思いだすことはできた。しかし場所と時間を思いだすことはできなかった。夜の暗い水音が聞こえた。煉瓦づくりの旧式の水門もあった。ハンドルをぐるぐると回して開け閉めする水門だ。大きな川ではない。岸辺の水草が川面をあらかた覆い隠しているような小さな流れだ。あたりは真暗でc懐中電灯を消すと自分の足もとさえ見えないくらいだった。そして水門のたまりの上を何百匹という数の螢が飛んでいた。その光はまるで燃えさかる火の粉のように水面に照り映えていた。
僕は目を閉じてその記憶の闇の中にしばらく身を沈めた。風の音がいつもよりくっきりと聞こえた。たいして強い風でもないのにcそれは不思議なくらい鮮かな軌跡を残して僕の体のまわりを吹き抜けていった。目を開けるとc夏の夜の闇はほんの少し深まっていた。
僕は瓶のふたを開けて螢をとりだしc三センチばかりつきだした給水塔の縁の上に置いた。螢は自分の置かれた状況がうまくつかめないようだった。螢はボルトのまわりをよろめきながら一周したりcかさぶたのようにめくれあがったペンキに足をかけたりしていた。しばらく右に進んでそこが行きどまりであることをたしかめてからcまた左に戻った。それから時間をかけてボルトの頭によじのぼりcそこにじっとうずくまった。螢はまるで息絶えてしまったみたいにcそのままぴくりとも動かなかった。
僕は手すりにもたれかかったままcそんな螢の姿を眺めていた。僕の方も螢の方も長いあいだ身動きひとつせずにそこにいた。風だけが我々のまわりを吹きすぎて行った。闇の中でけやきの木がその無数の葉をこすりあわせていた。
僕はいつまでも待ちつづけた。
螢が飛びたったのはずっとあとのことだった。螢は何かを思いついたようにふと羽を拡げcその次の瞬間には手すりを越えて淡い闇の中に浮かんでいた。それはまるで失われた時間をとり戻そうとするかのようにc給水塔のわきで素速く弧を描いた。そしてその光の線が風ににじむのを見届けるべく少しのあいだそこに留まってからcやがて東に向けて飛び去っていった。
螢が消えてしまったあとでもcその光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じた分厚い闇の中をcそのささやかな淡い光はcまるで行き場を失った魂のようにcいつまでもいつまでもさまよいつづけていた。
僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。
四
夏休みのあいだに大学の機動隊の出動を要請しc機動隊はバリケードを叩きつぶしc中に籠っていた学生の全員逮捕した。その当時はどこの大学でも同じようなことをやっていたしc特に珍しい出来事ではなかった。大学は解体なんてはしなかった。大学には大量の資本が投下されているしcそんなものが学生が暴れたくらいで「はいcそうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。彼らは大学という機構のイニシアチブの変更を求めていただけだったしc僕にとってはイニシアチブがどうなるかなんてまったくどうでもいいことだった。だからストがたたきつぶされたところでc特になんの感慨も持たなかった。
僕は九月になって大学がほとんど廃墟と化していることを期待していってみたのだがc大学はまったく無傷だった。図書館の本も略奪されることなくc教授室も破壊しつくされることはなくc学生課の建物も焼け落ちてはいなかった。あいつら一体何してたんだと僕は愕然とし思った。
ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されるとcいちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきてノートをとりc名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。なぜならスト決議はまだ有効だったしc誰もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことでc原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言ってcストに反対するあるいは疑念を表明する学生を罵倒しcあるいは吊るし上げたのだ。僕は彼らのところに行ってcどうしてストを続けないで講義にでてくるのかcと訊いてみた。彼らには答えられなかった。答えられるわけがないのだ。彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を呼んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。
おいキズキcここはひどい世界だよcと僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出てcせっせと下劣な社会を作るんだ。
僕はしばらくのあいだ講義に出ても出席をとるときには返事をしないことにした。そんなことをしたって何の意味もないことはよくわかっていたけれどcそうでもしないことには気分がわるくて仕方がなかったのだ。しかしそのおかげでクラスの中での僕の立場はもっと孤立したものになった。名前を呼ばれても僕が黙っているとc教室の中には居心地のわるい空気が流れた。誰も僕に話しかけなかったしc僕も誰にも話しかけなかった。
九月の第二週にc僕は大学教育というのはまったく無意味だという結論に到達した。そして僕はそれを退屈さに耐える訓練期間として捉えることに決めた。今ここで大学をやめたところで社会に出てなんかとくにやりたいことがあるわけではないのだ。僕は毎日大学に行って講義に出てノートを取りcあいた時間には図書館で本を読んだり調べものをしたりした。
九月の第二週になっても突撃隊はもどってこなかった。これは珍しいというより驚天動地の出来事だった。彼の大学はもう授業が始まっていたしc突撃隊が授業をすっぽかすなんてことはありえなかったからだ。彼らの机やラジオの上にはうっすらとほこりがつもっていた。棚の上にはブラスチックのコップと歯ブラシcお茶の缶c殺虫スプレーcそんなものがきちんと整頓されて並んでいた。
突撃隊がいないあいだは僕が部屋の掃除をした。この一年半のあいだにc部屋を清潔にすることは僕の習性の一部となっていたしc突撃隊がいなければ僕がその清潔さを維持するしかなかった。僕は毎日床を掃きc三日に一度窓を拭きc週に一回布団を干した。そして突撃隊が帰ってきて「ワcワタナベ君cどうしたのすごくきれいじゃないか」と言って賞めてくれるのを待った。
松语文学免费小说阅读_www.16sy.com
六月に二度c僕は永沢さんと一緒に町に出て女の子と寝た。どちらもとても簡単だった。一人の女の子は僕がホテルのベッドにつれこんで服を脱がせようとすると暴れて抵抗したがc僕が面倒臭くなってベッドの中で一人で本を読んでいるとcそのうちに自分の方から体をすりよせてきた。もう一人の女の子はセックスのあとで僕についてあらゆることを知りたがった。これまで何人くらいの女の子と寝たかだとかcどこの出身かだとかcどこの大学かだとかcどんな音楽が好きかだとかc太宰治の小説を読んだことがあるかだとかc外国旅行をするならどこに行ってみたいかだとかc私の乳首は他の人のに比べてちょっと大きすぎるとは思わないかだとかcとにかくもうありとあらゆる質問をした。僕は適当に答えて眠ってしまった。目が覚めると彼女は一緒に朝ごはんが食べたいと言った。僕は彼女と一緒に喫茶店に入ってモーニングサービスのまずいトーストとまずい玉子を食べまずいコーヒーを飲んだ。そしてそのあいだ彼女は僕にずっと質問をしていた。お父さんの職業は何かc高校時代の成績は良かったかc何月生まれかc蛙を食べたことはあるかc等等。僕は頭が痛くなってきたので食事が終るとcこれからそろそろアルバイトに行かなくちゃいけないからと言った。
「ねえcもう会えないの」と彼女は淋しそうに言った。
「またそのうちどこかで会えるよ」と僕は言ってそのまま別れた。そして一人になってからcやれやれ俺はいったい何をやっているんだろうと思ってうんざりした。こんなことをやっているべきではないんだと僕は思った。でもそうしないわけにはいかなかった。僕の体はひどく飢えて乾いていてc女と寝ることを求めていた。僕は彼女たちと寝ながらずっと直子のことを考えていた。闇の中に白く浮かびあがっていた直子のやcその吐息やc雨の音のことを考えていた。そしてそんなことを考えれば考えるほど僕の体は余計に飢えcそしで乾いた。僕は一人で屋上に上ってウィスキーを飲みc俺はいったい何処に行こうとしているんだろうと思った。
七月の始めに直子から手紙が届いた。短かい手紙だった。
「返事が遅くなってごめんなさい。でも理解して下さい。文章を書けるようになるまでずいぶん長い時間がかかったのです。そしてこの手紙ももう十回も書きなおしています。文章を書くのは私にとってとても辛いことなのです。
結論から書きます。大学をとりあえず一年間休学することにしました。とりあえずとは言ってもcもう一度大学に戻ることはおそらくないのではないかと思います。休学というのはあくまで手続上のことです。急な話だとあなたは思うかもしれないけれどcこれは前々からずっと考えていたことなのです。それについてはあなたに何度か話をしようと思っていたのですがcとうとう切り出せませんでした。口に出しちゃうのがとても怖かったのです。
いろんなことを気にしないで下さい。たとえ何が起っていたとしてもcたとえ何が起っていなかったとしてもc結局はこうなっていたんだろうと思います。あるいはこういう言い方はあなたを傷つけることになるのかもしれません。もしそうだとしたら謝ります。私の言いたいのは私のことであなたに自分自身を責めたりしないでほしいということなのです。これは本当に私が自分できちんと全部引き受けるべきことなのです。この一年あまり私はそれをのばしのばしにしてきてcそのせいであなたにもずいぶん迷惑をかけてしまったように思います。そしてたぶんこれが限界です。
国分寺のアパートを引き払ったあとc私は神戸の家に戻ってcしばらく病院に通いました。お医者様の話だと京都の山の中に私に向いた療養所があるらしいのでc少しそこに入ってみようかと思います。正確な意味での病院ではなくてcずっと自由な療養のための施設です。細かいことについてはまた別の機会に書くことにします。今はまだうまく書けないのです。今の私に必要なのは外界と遮断されたどこか静かなところで神経をやすめることなのです。
あなたが一年間私のそばにいてくれたことについてはc私は私なりに感謝しています。そのことだけは信じて下さい。あなたが私を傷つけたわけではありません。私を傷つけたのは私自身です。私はそう思っています。
私は今のところまだあなたに会う準備ができていません。会いたくないというのではなくc会う準備ができていないのです。もし準備ができたと思ったらc私はあなたにすぐ手紙を書きます。そのときには私たちはもう少しお互いのことを知りあえるのではないかと思います。あなたが言うようにc私たちはお互いのことをもっと知りあうべきなのでしょう。
さようなら」
僕は何百回もこの手紙を読みかえした。そして読みかえすたびにたまらなく哀しい気持になった。それはちょうど直子にじっと目をのぞきこまれているときに感じるのと同じ種類の哀しみだった。僕はそんなやるせない気持をどこに持っていくこともcどこにしまいこむこともできなかった。それは体のまわりを吹きすぎていく風のように輪郭もなくc重さもなかった。僕はそれを身にまとうことすらできなかった。
風景が僕の前をゆっくりと通りすぎていった。彼らの語る言葉は僕の耳には届かなかった。
土曜の夜になると僕はあいかわらずロビーの椅子に座って時間を過した。電話のかかってくるあてはなかったがc他にやることもなかった。僕はいつもtvの野球中継をつけてcそれを見ているふりをしていた。そして僕とtvのあいだに横たわる茫漠とした空間をふたつに区切りcその区切られた空間をまたふたつに区切った。そして何度も何度もそれをつづけc最後には手のひらにのるくらいの小さな空間を作りあげた。
十時になると僕はtvを消して部屋に戻りcそして眠った。
*
その月の終りに突撃隊が僕に螢をくれた。
螢はインスタントコーヒーの瓶に入っていた。瓶の中には草の葉と水が少し入っていてcふたには細かい空気穴がいくつか開いていた。あたりはまだ明るかったのでcそれは何の変哲もない黒い水辺の虫にしか見えなかったがc突撃隊はそれは間違いなく螢だと主張した。螢のことはよく知ってるんだcと彼は言ったしc僕の方にはとくにそれを否定する理由も根拠もなかった。よろしいcそれは螢なのだ。螢はなんだか眠たそうな顔をしていた。そしてつるつるとしたガラスの壁を上ろうとしてはそのたびに下に滑り落ちていた。
「庭にいたんだよ」
「ここの庭に」と僕はびっくりして訊いた。
「ほらcこcこの近くのホテルで夏になると客寄せに螢を放すだろあれがこっちに紛れこんできたんだよ」と彼は黒いボストンバックに衣類やノートを詰めこみながら言った。
夏休みに入ってからもう何週間も経っていてc寮にまだ残っているのは我々くらいのものだった。僕の方はあまり神戸に帰りたくなくてアルバイトをつづけていたしc彼の方には実習があったからだ。でもその実習も終りc彼は家に帰ろうとしていた。突撃隊の家は山梨にあった。
「これねc女の子にあげるといいよ。きっと喜ぶからさ」と彼は言った。
「ありがとう」と僕は言った。
日が暮れると寮はしんとしてcまるで廃墟みたいな感じになった。国旗がポールから降ろされc食堂の窓に電気が灯った。学生の数が減ったせいでc食堂の灯はいつもの半分しかついていなかった。右半分は消えてc左半分だけがついていた。それでも微かに夕食の匂いが漂っていた。クリームシチューの匂いだった。
僕は螢の入ったインスタントコーヒーの瓶を持って屋上に上った。屋上には人影はなかった。誰かがとりこみ忘れた白いシャツが洗濯ロープにかかっていてc何かの脱け殻のように夕暮の風に揺れていた。
僕は屋上の隅にある鉄の梯子を上って給水塔の上に出た。円筒形の給水タンクは昼のあいだにたっぷりと吸いこんだ熱でまだあたたかかった。狭い空間に腰を下ろしc手すりにもたれかかるとcほんの少しだけ欠けた白い月が目の前に浮かんでいた。右手には新宿の街の光がc左手には池袋の街の光が見えた。車のヘッドライトが鮮かな光の川となってc街から街へと流れていた。様々な音が混じりあったやわらかなうなりがcまるで雲みたいにぼおっと街の上に浮かんでいた。
瓶の底で螢はかすかに光っていた。しかしその光はあまりにも弱くcその色はあまりにも淡かった。僕が最後に螢を見たのはずっと昔のことだったがcその記憶の中では螢はもっとくっきりとした鮮かな光を夏の闇の中に放っていた。僕はずっと螢というのはそういう鮮かな燃えたつような光を放つものと思いこんでいたのだ。
螢は弱って死にかけているのかもしれない。僕は瓶のくちを持って何度か軽く振ってみた。螢はガラスの壁に体を打ちつけcほんの少しだけ飛んだ。しかしその光はあいかわらずぼんやりしていた。
螢を最後に見たのはいつのことだっけなと僕は考えてみた。そしていったい何処だったのだろうcあれは僕はその光景を思いだすことはできた。しかし場所と時間を思いだすことはできなかった。夜の暗い水音が聞こえた。煉瓦づくりの旧式の水門もあった。ハンドルをぐるぐると回して開け閉めする水門だ。大きな川ではない。岸辺の水草が川面をあらかた覆い隠しているような小さな流れだ。あたりは真暗でc懐中電灯を消すと自分の足もとさえ見えないくらいだった。そして水門のたまりの上を何百匹という数の螢が飛んでいた。その光はまるで燃えさかる火の粉のように水面に照り映えていた。
僕は目を閉じてその記憶の闇の中にしばらく身を沈めた。風の音がいつもよりくっきりと聞こえた。たいして強い風でもないのにcそれは不思議なくらい鮮かな軌跡を残して僕の体のまわりを吹き抜けていった。目を開けるとc夏の夜の闇はほんの少し深まっていた。
僕は瓶のふたを開けて螢をとりだしc三センチばかりつきだした給水塔の縁の上に置いた。螢は自分の置かれた状況がうまくつかめないようだった。螢はボルトのまわりをよろめきながら一周したりcかさぶたのようにめくれあがったペンキに足をかけたりしていた。しばらく右に進んでそこが行きどまりであることをたしかめてからcまた左に戻った。それから時間をかけてボルトの頭によじのぼりcそこにじっとうずくまった。螢はまるで息絶えてしまったみたいにcそのままぴくりとも動かなかった。
僕は手すりにもたれかかったままcそんな螢の姿を眺めていた。僕の方も螢の方も長いあいだ身動きひとつせずにそこにいた。風だけが我々のまわりを吹きすぎて行った。闇の中でけやきの木がその無数の葉をこすりあわせていた。
僕はいつまでも待ちつづけた。
螢が飛びたったのはずっとあとのことだった。螢は何かを思いついたようにふと羽を拡げcその次の瞬間には手すりを越えて淡い闇の中に浮かんでいた。それはまるで失われた時間をとり戻そうとするかのようにc給水塔のわきで素速く弧を描いた。そしてその光の線が風ににじむのを見届けるべく少しのあいだそこに留まってからcやがて東に向けて飛び去っていった。
螢が消えてしまったあとでもcその光の軌跡は僕の中に長く留まっていた。目を閉じた分厚い闇の中をcそのささやかな淡い光はcまるで行き場を失った魂のようにcいつまでもいつまでもさまよいつづけていた。
僕はそんな闇の中に何度も手をのばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光はいつも僕の指のほんの少し先にあった。
四
夏休みのあいだに大学の機動隊の出動を要請しc機動隊はバリケードを叩きつぶしc中に籠っていた学生の全員逮捕した。その当時はどこの大学でも同じようなことをやっていたしc特に珍しい出来事ではなかった。大学は解体なんてはしなかった。大学には大量の資本が投下されているしcそんなものが学生が暴れたくらいで「はいcそうですか」とおとなしく解体されるわけがないのだ。そして大学をバリケード封鎖した連中も本当に大学を解体したいなんて思っていたわけではなかった。彼らは大学という機構のイニシアチブの変更を求めていただけだったしc僕にとってはイニシアチブがどうなるかなんてまったくどうでもいいことだった。だからストがたたきつぶされたところでc特になんの感慨も持たなかった。
僕は九月になって大学がほとんど廃墟と化していることを期待していってみたのだがc大学はまったく無傷だった。図書館の本も略奪されることなくc教授室も破壊しつくされることはなくc学生課の建物も焼け落ちてはいなかった。あいつら一体何してたんだと僕は愕然とし思った。
ストが解除され機動隊の占領下で講義が再開されるとcいちばん最初に出席してきたのはストを指導した立場にある連中だった。彼らは何事もなかったように教室に出てきてノートをとりc名前を呼ばれると返事をした。これはどうも変な話だった。なぜならスト決議はまだ有効だったしc誰もスト終結を宣言していなかったからだ。大学が機動隊を導入してバリケードを破壊しただけのことでc原理的にはストはまだ継続しているのだ。そして彼らはスト決議のときには言いたいだけ元気なことを言ってcストに反対するあるいは疑念を表明する学生を罵倒しcあるいは吊るし上げたのだ。僕は彼らのところに行ってcどうしてストを続けないで講義にでてくるのかcと訊いてみた。彼らには答えられなかった。答えられるわけがないのだ。彼らは出席不足で単位を落とすのが怖いのだ。そんな連中が大学解体を呼んでいたのかと思うとおかしくて仕方なかった。そんな下劣な連中が風向きひとつで大声を出したり小さくなったりするのだ。
おいキズキcここはひどい世界だよcと僕は思った。こういう奴らがきちんと大学の単位をとって社会に出てcせっせと下劣な社会を作るんだ。
僕はしばらくのあいだ講義に出ても出席をとるときには返事をしないことにした。そんなことをしたって何の意味もないことはよくわかっていたけれどcそうでもしないことには気分がわるくて仕方がなかったのだ。しかしそのおかげでクラスの中での僕の立場はもっと孤立したものになった。名前を呼ばれても僕が黙っているとc教室の中には居心地のわるい空気が流れた。誰も僕に話しかけなかったしc僕も誰にも話しかけなかった。
九月の第二週にc僕は大学教育というのはまったく無意味だという結論に到達した。そして僕はそれを退屈さに耐える訓練期間として捉えることに決めた。今ここで大学をやめたところで社会に出てなんかとくにやりたいことがあるわけではないのだ。僕は毎日大学に行って講義に出てノートを取りcあいた時間には図書館で本を読んだり調べものをしたりした。
九月の第二週になっても突撃隊はもどってこなかった。これは珍しいというより驚天動地の出来事だった。彼の大学はもう授業が始まっていたしc突撃隊が授業をすっぽかすなんてことはありえなかったからだ。彼らの机やラジオの上にはうっすらとほこりがつもっていた。棚の上にはブラスチックのコップと歯ブラシcお茶の缶c殺虫スプレーcそんなものがきちんと整頓されて並んでいた。
突撃隊がいないあいだは僕が部屋の掃除をした。この一年半のあいだにc部屋を清潔にすることは僕の習性の一部となっていたしc突撃隊がいなければ僕がその清潔さを維持するしかなかった。僕は毎日床を掃きc三日に一度窓を拭きc週に一回布団を干した。そして突撃隊が帰ってきて「ワcワタナベ君cどうしたのすごくきれいじゃないか」と言って賞めてくれるのを待った。
松语文学免费小说阅读_www.16sy.com