正文 第11节
良きゃ成績も良いって女の子が千人近くあつめられてるの。まc金持の娘ばかりね。。でなきゃやっていけないもの。授業料高いしc寄付もしょっちゅうあるしc修学旅行っていや京都の高級旅館を借りきって塗りのお膳で懐石料理食べるしc年に一回ホテルオークラの食堂でテーブルマナーの講習があるしcとにかく普通じゃないのよ。ねえc知ってる私の学年百六十人の中で豊島区に住んでる生徒って私だけだったのよ。私一度学生名簿を全部調べてみたの。みんないったいどんなところに住んでるだろうって。すごかったわねえc千代田ちよだ区三番町c港区元麻布もとあざぶc大田区田園調布でんえんちょうふc世田谷せたがや区成城せいじょうもうずうっとそんなのばかりよ。一人だけ千葉県柏市かしわしっていう女の子がいてねc私その子とちょっと仲良くなってみたの。良い子だったわよ。家にあそびにいらっしゃいよc遠くてわるいけどっていうからいいわよって行ってみたの。仰天しちゃったわね。なにしろ敷地を一周するのに十五分かかるの。すごく庭があってc小型車くらい大きさの犬が二匹いて牛肉のかたまりをむしゃむしゃ食べてるわけ。それでもその子c自分が千葉に住んでることでひけめ感じてたのよcクラスの中で。遅刻しそうになったらメルセデスベンツで学校の近くまで送ってもらうような子がよ。車は運転手つきでcその運転手たるやグリーンホーネットに出てくる運転手みたいに帽子かぶって白い手袋はめてるのよ。なのにその子c自分のことを恥ずかしがってるのよ。信じられないワ。信じられる」
僕は首を振った。
「豊島区北大塚きたおおつかなんて学校中探したって私くらいしかいやしないわよ。おまけに親の職業欄にはこうあるのc〈書店経営〉ってね。おかげてクラスのみんなは私のことすごく珍しがってくれたわ。好きな本がすきなだけ読めていいわねえって。冗談じゃないわよ。みんなが考えてるのは紀伊国屋みたいな大型書店なのよ。あの人たち本屋っていうとああいうのしか想像できないのね。でもねc実物たるや惨めなものよ。小林書店。気の毒な小林書店。がらがらと戸をあけると目の前にずらりと雑誌が並んでいるの。一番堅実けんじつに売れるのが婦人雑誌c新しい性の技巧図解入り四十八手のとじこみ付録のツイてるや強。近所の奥さんがそういうの買ってってc台所のテーブルに座って熟読してc御主人が帰ってきたらちょっとためしてみるのね。あれけっこうすごいのよね。まったく世間の奥さんって何を考えて生きているのかしら。それから漫画。これも売れるわよね。マガジンcサンデーcジャンプ。そしてもちろん週刊誌。とにかく殆んどが雑誌なのよ。少し文庫はあるけどcたいしたものないわよ。ミステリーとかc時代ものc風俗ものcそういうのしか売れないから。そして実用書。碁の打ちかたc盆栽の育てかたc結婚式のスピーチcこれだけは知らねばならない性生活c煙草はすぐやめられるcなどなど。それからうちは文房具まで売ってるのよ。レジの横にボールペンとか鉛とかノートとかそういうの並べてね。それだけ。戦争と平和もないしc性的人間もないしcらい麦畑むぎばたけもないの。それが小林書店。そんなものいったいどこがうらやましいっていうのよあなたうらやましい」
「情景が目の前に浮かぶね」
「まcそういう店なのよ。近所の人はみんなうちに本を買いに来るしc配達もするしc昔からのお客さんも多いし家四人は十分食べていけるわよ。借金もないし。娘を二人大学にやることはできるわよ。でもそれだけ。それ以上になにか特別なことをやるような余裕はうちにはないのよ。だからあんな学校に私を入れたりするべきじゃなかったのよ。そんなの惨めになるだけだもの。何か寄付があるたびに親にぶつぶつ文句を言われてcクラスの友だちとどこかにあそびに行っても食事どきになると高い店に入ってお金が足りなくなるんじゃないかってびくびくしてね。そんな人生って暗いわよ。あなたのお家はお金持なの」
「うちうちはごく普通の勤め人だよ。とくに金持でもないしcとくに貧乏でもない。子供を東京の私立大学にやるのはけっこう大変だと思うけどcまあ子供は僕一人だから問題はない。仕送りはそんなに多くないしcだからアルバイトしてる。ごくあたり前の家だよ。小さな庭があってcトヨタカローラがあって」
「どんなアルバイトしてるの」
「週に三回新宿のレコード屋で夜働いている。楽な仕事だよ。じっと座って店番してりゃいいんだ」
「ふうん」と緑は言った。「私ねcワタナベ君ってお金に苦労したことなんかない人だって思ってたのよ。なんとなくc見かけで」
「苦労したことはないよcべつに。それほど沢山お金があるわけじゃないっていうだけのことだしc世の中の大抵の人はそうだよ」
「私通って学校では大抵の人は金持だったのよ」と彼女は膝の上に両方の手のひらを上にに向けて言った。「それが問題だったのよ」
「じゃあこれからはそうじゃない世界をいやっていうくらいみることになるよ」
「ねえcお金持であることの最大の利点ってなんだと思う」
「わからないな」
「お金がないって言えることなのよ。例えば私がクラスの友だちに何かしましょう寄って言うでしょうcすると相手はこう言うのc私いまお金がないから駄目って。逆の立場になったら私とてもそんなこと言えないわ。私がもしいまお金ないって言ったらcそれは本当にお金がないって言うことなんだもの。惨めなだけよ。美人の女の子が私今日はひどい顔してるからそどに出たくないなあっていうのと同じね。ブスの子がそんなこと言ってごらんなさいよc笑われるだけよ。そういうのが私にとっての世界だったのよ。去年までの六年間の」
「そのうちに忘れるよ」と僕は言った。
「早く忘れたいわ。私ねc大学に入って本当にホッとしたのよ。普通の人がいっぱいいて」
彼女はほんの少し唇を曲げて微笑みc短い髪を手のひらで撫でた。
「君はなにかアルバイトしてる」
「うんc地図の解説を書いてるの。ほらc地図を買うと小冊子しょうさっしみたいなのがついてるでしょ町の説明とかc人口とかc名所とかについていろいろ書いてあるやつ。ここにこういうハイキングコースがあってcこういう伝説があってcこういう花が咲いてcこういう鳥がいてとかね。あの原稿を書く仕事なのよ。あんなの本当に簡単なの。あっという間よ。日比谷ひびや図書館に行って一日がかりで本を調べたら一冊書けちゃうもの。ちょっとしたコツをのみこんだら仕事なんかくらでもくるし」
「コツってcどんなコツ」
「つまりねc他の人が書かないようなことをちょっと盛りこんでおけばいいのよ。すると地図会社の担当の人はあのこは文章がかけるって思ってくれるわけ。すごく感心してくれたりしてね。仕事をまわしてくれるのよ。別にたいしたことじゃなくていいのよ。ちょっとしたことでいいの。たとえばねcダムを作るために村がひとつここで沈んだがcわたり鳥たちは今でもまだその村のことを覚えていてc季節がくると鳥たちがその子の湖をいつまで飛びまわっている光景が見られるcとかね。そういうエピソードをひとつ入れておくとねcみんなすごく喜ぶのよ。ほら情景的に情緒的でしょ。普通のアルバイトの子ってそういう工夫をしないのよcあまり。だがら私けっこういいお金とってるのよcその原稿書きで」
「でもよくそういうエピソードがみつかるもんだねcうまく」
「そうねえ」と言って緑はすこし首ををひねった。「見つけようと思えばなんとか見つかるものだしc見つからなきゃ害のない程度に作っちゃえばいいのよ」
「なるほど」と僕は感心して言った。
「ピース」と緑は言った。
彼女は僕の住んでいる寮の話を聞きたがったのでc僕は例によって日の丸の話やら突撃隊のラジオ体操の話やらをした。緑も突撃隊の話で大笑いした。突撃隊は世界中の人を楽しい気持ちにさせるようだった。緑は面白そうだから一度是非その寮を見てみたいと言った。見たって面白かないさcと僕は言った。
「男の学生が何百人うす汚い部屋の中で酒飲んだりマスターベイションしたりしてるだけさ」
「ワタナベ君もするのcそういうの」
「しない人間はいないよ」と僕は説明した。「女の子に生理があるのと同じようにc男はマスターベイションやるんだ。みんなやる。誰でもやる。」
「恋人がいる人もやるかしらつまりセックスの相手がいる人も」
「そういう問題じゃないんだ。僕の隣の部屋の慶応けいおう大学の学生なんてマスターベイションしてからデートに行くよ。その方がおちつくからって」
「そういうことは婦人雑誌の付録には書いてないしね」
「まったく」と言って緑は笑った。「ところでワタナベ君c今度の日曜日は暇あいてる」
「どの日曜日も暇だよ。六時からアルバイトに行かなきゃならないけど」
「よかったら一度うちにあそびにこない小林書店に。店は閉まってるんだけどc私夕方まで留守番しなくちゃならないの。ちょっと大事な電話がかかってくるかもしれないから。ねえcお昼ごはん食べない作ってあげるわよ」
「ありがたいね」と僕は言った。
緑はノートのベージを破って家までの道筋をくわしく地図に描いてくれた。そして赤いボールペンを出して家のあるところに巨大なx印をつけた。
「いやでもわかるわよ。小林書店っていう大きな看板が出てるから。十二時くらいに来てくれるごはん用意してるから」
僕は礼を言ってその地図をポケットにしまった。そしてそろそろ大学に戻って二時からのドイツ語の授業に出ると言った。緑は行くところがあるからと言って四ツ谷から電車に乗った。
日曜日の朝c僕は九時に起きて髭を剃りc洗濯をして洗濯ものを屋上に干した。素晴らしい天気だった。最初の秋の匂いがした。赤とんぼの群れむれが中庭をぐるぐるとびまわりc近所の子供たちが網をもってそれを追いまわしていた。風はなくc日の丸の旗はだらんと下に垂れていた。僕はきちんとアイロンのかかったシャツを着て寮を出て都電の駅まで歩いた。日曜日の学生街はまるで死に絶えたようにがらんとしていて人影もほとんどなくc大方の店は閉まっていた。町のいろんな物音はいつもよりずっとくっきりと響きわたっていた。木製のヒールのついたサボをはいた女の子がからんからんと音をたてながらアスファルトの道路を横切りc都電の車庫のわきでは四c五人の子供たちが空缶を並べてそれめがけて石を投げていた。花屋が一軒店を開けていたのでc僕はそこで水仙の花を何本か買った。秋に水仙を買うというのも変なものだったがc僕は昔から水仙の花が好きなのだ。
日曜日の朝の都電には三人づれのおばあさんしか乗っていなかった。僕が乗るとおばあさんたちは僕の顔と僕の手にした水仙の花を見比べた。ひとりのおばあさんは僕の顔を見てにっこりと笑った。僕のにっこりとしたそしていちばんうしろの席に座りc窓のすぐそとを通りすぎていく古い家並みを眺めていた。電車は家々の軒先のきさきすれすれのところを走っていた。ある家の物干しにはトマトの鉢植はちうえが十個もならびcその横で大きな黒猫がひなたぼっこをしていた。小さな子供が庭でしゃぼん玉をとばしているのも見えた。どこかからいしだあゆみの唄が聴こえた。カレーの匂いさえ漂っていた。電車はそんな親密な裏町を縫うようにすると走っていった。途中の駅で何人か客がこりこんできたがc三人のおばあさんたちは飽きもせず何かについて熱心に頭をつき合わせて話しつづけていた。
大塚駅の近くで僕は都電を降りcあまり見映えのしない大通りを彼女が地図に描いてくれたとおりに歩いた。道筋に並んでいる商店はどれもこれもあまり繁盛はんじょうしているようには見えなかった。どの店も建物は旧くc中は暗そうだった。看板の字が消えかけているものもあった。建物の旧さやスタイルから見てcこのあたりが戦争で爆撃を受けなかったらしいことがわかった。だからこうした家並みがそのままに残されているのだ。もちろん建てなおされたものもあったしcどの家も増築ぞうちくされたら部分的に補修されたりはしていたがcそういうのはまったくの古い家より余計に汚らしく見えることのほうが多かった。
人々の多くは車の多さや空気の悪さや騒音や家賃の高さに音をあげて郊外に移っていってしまいcあとに残ったのは安アパートか社宅か引越しのむずかしい商店かcあるいは頑固がんこに昔から住んでいる土地にしがみついている人だけといった雰囲気の町だった。車の排気ガスのせいでcまるでかすみがかかったみたいに何もかもがぼんやりと薄汚れていた。
そんな道を十分ばかり歩いてガソリンスタンドの角を右に曲ると小さな商店街がありcまん中あたりに「小林書店」という看板が見えた。たしかに大きな店ではなかったけれどc僕が緑の話から想像していたほど小さくはなかった。ごく普通の町のごく普通の本屋だった。僕が子供の頃c発売日を待ちかねて少年週刊誌を買いに走っていったのと同じような本屋だった。小林書店の前に立っていると僕はなんとなく懐かしい気分になった。どこの町にもこういう本屋があるのだ。
店はすっかりシャッターをおろしcシャッターには「週刊文春毎週木曜日発売」と書いてあった。十二時にはまだ十五分ほど間があったがc水仙の花を持って商店街を歩いて時間をつぶすのもあまり気が進まなかったのでc僕はシャッターのわきにあるベルを押してc二c三歩後ろにさがって返事を待った。十五秒くらい待ったが返事はなかった。もう一度ベルを押したものかどうか迷っているとc上の方でガラガラと窓の開く音がした。見上げると緑が窓から首を出して手を振っていた。
「シャッター開けて入ってらっしゃいよ」と彼女はどなった。
「ちょっと早かったけどcいいかな」と僕もどなりかえした。
「かまわないわよcちっとも。二階に上がってきてよ。私c今ちょっと手が放せないの」そしてまたガラガラと窓が閉まった。
僕はとんでもなく大きい音を立ててシャッターを一メートルほど押しあげc身をかがめて中に入りcまたシャッターを下ろした。店の中はまっ暗かった。土間どまからあがったところは簡単な応接室のようになっていてcソファセットが置いてあった。それほど広くはない部屋でc窓からは一昔前のポーランド映画みたいなうす暗い光がさしこんでいた。左手には倉庫のような物置のようなスペースがありc便所のドアも見えた。右手の急な階段を用心ぶかく上がっていくと二階に出た。二階は一階に比べると格段に明るかったので僕は少なからずホッとした。
「ねえcこっち」とどこかで緑の声がした。階段を上がったところ右手に食堂のような部屋がありcその奥に台所があった。家そのものは旧かったがc台所はつい最近改築されたらしくc流し台も蛇口も収納棚もぴかぴかに新しかった。そしてそこで緑が食事の仕度をしていた。鍋で何かを煮るぐつぐつという音がしてc魚を焼く匂いがした。
「冷蔵庫にビールが入ってるからcそこに座って飲んでてくれる」と緑がちらっとこちらを見て言った。僕は冷蔵庫から缶ビールをだしてテーブルに座って飲んだ。ビールは半年くらいそこに入ってたんじゃないかと思えるくらいよく冷えていた。テーブルの上には小さな白い灰皿と新聞と醤油さしがのっていた。メモ用紙とボールペンもあってcメモ用紙には電話番号と買物の計算らしい数字が書いてあった。
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僕は首を振った。
「豊島区北大塚きたおおつかなんて学校中探したって私くらいしかいやしないわよ。おまけに親の職業欄にはこうあるのc〈書店経営〉ってね。おかげてクラスのみんなは私のことすごく珍しがってくれたわ。好きな本がすきなだけ読めていいわねえって。冗談じゃないわよ。みんなが考えてるのは紀伊国屋みたいな大型書店なのよ。あの人たち本屋っていうとああいうのしか想像できないのね。でもねc実物たるや惨めなものよ。小林書店。気の毒な小林書店。がらがらと戸をあけると目の前にずらりと雑誌が並んでいるの。一番堅実けんじつに売れるのが婦人雑誌c新しい性の技巧図解入り四十八手のとじこみ付録のツイてるや強。近所の奥さんがそういうの買ってってc台所のテーブルに座って熟読してc御主人が帰ってきたらちょっとためしてみるのね。あれけっこうすごいのよね。まったく世間の奥さんって何を考えて生きているのかしら。それから漫画。これも売れるわよね。マガジンcサンデーcジャンプ。そしてもちろん週刊誌。とにかく殆んどが雑誌なのよ。少し文庫はあるけどcたいしたものないわよ。ミステリーとかc時代ものc風俗ものcそういうのしか売れないから。そして実用書。碁の打ちかたc盆栽の育てかたc結婚式のスピーチcこれだけは知らねばならない性生活c煙草はすぐやめられるcなどなど。それからうちは文房具まで売ってるのよ。レジの横にボールペンとか鉛とかノートとかそういうの並べてね。それだけ。戦争と平和もないしc性的人間もないしcらい麦畑むぎばたけもないの。それが小林書店。そんなものいったいどこがうらやましいっていうのよあなたうらやましい」
「情景が目の前に浮かぶね」
「まcそういう店なのよ。近所の人はみんなうちに本を買いに来るしc配達もするしc昔からのお客さんも多いし家四人は十分食べていけるわよ。借金もないし。娘を二人大学にやることはできるわよ。でもそれだけ。それ以上になにか特別なことをやるような余裕はうちにはないのよ。だからあんな学校に私を入れたりするべきじゃなかったのよ。そんなの惨めになるだけだもの。何か寄付があるたびに親にぶつぶつ文句を言われてcクラスの友だちとどこかにあそびに行っても食事どきになると高い店に入ってお金が足りなくなるんじゃないかってびくびくしてね。そんな人生って暗いわよ。あなたのお家はお金持なの」
「うちうちはごく普通の勤め人だよ。とくに金持でもないしcとくに貧乏でもない。子供を東京の私立大学にやるのはけっこう大変だと思うけどcまあ子供は僕一人だから問題はない。仕送りはそんなに多くないしcだからアルバイトしてる。ごくあたり前の家だよ。小さな庭があってcトヨタカローラがあって」
「どんなアルバイトしてるの」
「週に三回新宿のレコード屋で夜働いている。楽な仕事だよ。じっと座って店番してりゃいいんだ」
「ふうん」と緑は言った。「私ねcワタナベ君ってお金に苦労したことなんかない人だって思ってたのよ。なんとなくc見かけで」
「苦労したことはないよcべつに。それほど沢山お金があるわけじゃないっていうだけのことだしc世の中の大抵の人はそうだよ」
「私通って学校では大抵の人は金持だったのよ」と彼女は膝の上に両方の手のひらを上にに向けて言った。「それが問題だったのよ」
「じゃあこれからはそうじゃない世界をいやっていうくらいみることになるよ」
「ねえcお金持であることの最大の利点ってなんだと思う」
「わからないな」
「お金がないって言えることなのよ。例えば私がクラスの友だちに何かしましょう寄って言うでしょうcすると相手はこう言うのc私いまお金がないから駄目って。逆の立場になったら私とてもそんなこと言えないわ。私がもしいまお金ないって言ったらcそれは本当にお金がないって言うことなんだもの。惨めなだけよ。美人の女の子が私今日はひどい顔してるからそどに出たくないなあっていうのと同じね。ブスの子がそんなこと言ってごらんなさいよc笑われるだけよ。そういうのが私にとっての世界だったのよ。去年までの六年間の」
「そのうちに忘れるよ」と僕は言った。
「早く忘れたいわ。私ねc大学に入って本当にホッとしたのよ。普通の人がいっぱいいて」
彼女はほんの少し唇を曲げて微笑みc短い髪を手のひらで撫でた。
「君はなにかアルバイトしてる」
「うんc地図の解説を書いてるの。ほらc地図を買うと小冊子しょうさっしみたいなのがついてるでしょ町の説明とかc人口とかc名所とかについていろいろ書いてあるやつ。ここにこういうハイキングコースがあってcこういう伝説があってcこういう花が咲いてcこういう鳥がいてとかね。あの原稿を書く仕事なのよ。あんなの本当に簡単なの。あっという間よ。日比谷ひびや図書館に行って一日がかりで本を調べたら一冊書けちゃうもの。ちょっとしたコツをのみこんだら仕事なんかくらでもくるし」
「コツってcどんなコツ」
「つまりねc他の人が書かないようなことをちょっと盛りこんでおけばいいのよ。すると地図会社の担当の人はあのこは文章がかけるって思ってくれるわけ。すごく感心してくれたりしてね。仕事をまわしてくれるのよ。別にたいしたことじゃなくていいのよ。ちょっとしたことでいいの。たとえばねcダムを作るために村がひとつここで沈んだがcわたり鳥たちは今でもまだその村のことを覚えていてc季節がくると鳥たちがその子の湖をいつまで飛びまわっている光景が見られるcとかね。そういうエピソードをひとつ入れておくとねcみんなすごく喜ぶのよ。ほら情景的に情緒的でしょ。普通のアルバイトの子ってそういう工夫をしないのよcあまり。だがら私けっこういいお金とってるのよcその原稿書きで」
「でもよくそういうエピソードがみつかるもんだねcうまく」
「そうねえ」と言って緑はすこし首ををひねった。「見つけようと思えばなんとか見つかるものだしc見つからなきゃ害のない程度に作っちゃえばいいのよ」
「なるほど」と僕は感心して言った。
「ピース」と緑は言った。
彼女は僕の住んでいる寮の話を聞きたがったのでc僕は例によって日の丸の話やら突撃隊のラジオ体操の話やらをした。緑も突撃隊の話で大笑いした。突撃隊は世界中の人を楽しい気持ちにさせるようだった。緑は面白そうだから一度是非その寮を見てみたいと言った。見たって面白かないさcと僕は言った。
「男の学生が何百人うす汚い部屋の中で酒飲んだりマスターベイションしたりしてるだけさ」
「ワタナベ君もするのcそういうの」
「しない人間はいないよ」と僕は説明した。「女の子に生理があるのと同じようにc男はマスターベイションやるんだ。みんなやる。誰でもやる。」
「恋人がいる人もやるかしらつまりセックスの相手がいる人も」
「そういう問題じゃないんだ。僕の隣の部屋の慶応けいおう大学の学生なんてマスターベイションしてからデートに行くよ。その方がおちつくからって」
「そういうことは婦人雑誌の付録には書いてないしね」
「まったく」と言って緑は笑った。「ところでワタナベ君c今度の日曜日は暇あいてる」
「どの日曜日も暇だよ。六時からアルバイトに行かなきゃならないけど」
「よかったら一度うちにあそびにこない小林書店に。店は閉まってるんだけどc私夕方まで留守番しなくちゃならないの。ちょっと大事な電話がかかってくるかもしれないから。ねえcお昼ごはん食べない作ってあげるわよ」
「ありがたいね」と僕は言った。
緑はノートのベージを破って家までの道筋をくわしく地図に描いてくれた。そして赤いボールペンを出して家のあるところに巨大なx印をつけた。
「いやでもわかるわよ。小林書店っていう大きな看板が出てるから。十二時くらいに来てくれるごはん用意してるから」
僕は礼を言ってその地図をポケットにしまった。そしてそろそろ大学に戻って二時からのドイツ語の授業に出ると言った。緑は行くところがあるからと言って四ツ谷から電車に乗った。
日曜日の朝c僕は九時に起きて髭を剃りc洗濯をして洗濯ものを屋上に干した。素晴らしい天気だった。最初の秋の匂いがした。赤とんぼの群れむれが中庭をぐるぐるとびまわりc近所の子供たちが網をもってそれを追いまわしていた。風はなくc日の丸の旗はだらんと下に垂れていた。僕はきちんとアイロンのかかったシャツを着て寮を出て都電の駅まで歩いた。日曜日の学生街はまるで死に絶えたようにがらんとしていて人影もほとんどなくc大方の店は閉まっていた。町のいろんな物音はいつもよりずっとくっきりと響きわたっていた。木製のヒールのついたサボをはいた女の子がからんからんと音をたてながらアスファルトの道路を横切りc都電の車庫のわきでは四c五人の子供たちが空缶を並べてそれめがけて石を投げていた。花屋が一軒店を開けていたのでc僕はそこで水仙の花を何本か買った。秋に水仙を買うというのも変なものだったがc僕は昔から水仙の花が好きなのだ。
日曜日の朝の都電には三人づれのおばあさんしか乗っていなかった。僕が乗るとおばあさんたちは僕の顔と僕の手にした水仙の花を見比べた。ひとりのおばあさんは僕の顔を見てにっこりと笑った。僕のにっこりとしたそしていちばんうしろの席に座りc窓のすぐそとを通りすぎていく古い家並みを眺めていた。電車は家々の軒先のきさきすれすれのところを走っていた。ある家の物干しにはトマトの鉢植はちうえが十個もならびcその横で大きな黒猫がひなたぼっこをしていた。小さな子供が庭でしゃぼん玉をとばしているのも見えた。どこかからいしだあゆみの唄が聴こえた。カレーの匂いさえ漂っていた。電車はそんな親密な裏町を縫うようにすると走っていった。途中の駅で何人か客がこりこんできたがc三人のおばあさんたちは飽きもせず何かについて熱心に頭をつき合わせて話しつづけていた。
大塚駅の近くで僕は都電を降りcあまり見映えのしない大通りを彼女が地図に描いてくれたとおりに歩いた。道筋に並んでいる商店はどれもこれもあまり繁盛はんじょうしているようには見えなかった。どの店も建物は旧くc中は暗そうだった。看板の字が消えかけているものもあった。建物の旧さやスタイルから見てcこのあたりが戦争で爆撃を受けなかったらしいことがわかった。だからこうした家並みがそのままに残されているのだ。もちろん建てなおされたものもあったしcどの家も増築ぞうちくされたら部分的に補修されたりはしていたがcそういうのはまったくの古い家より余計に汚らしく見えることのほうが多かった。
人々の多くは車の多さや空気の悪さや騒音や家賃の高さに音をあげて郊外に移っていってしまいcあとに残ったのは安アパートか社宅か引越しのむずかしい商店かcあるいは頑固がんこに昔から住んでいる土地にしがみついている人だけといった雰囲気の町だった。車の排気ガスのせいでcまるでかすみがかかったみたいに何もかもがぼんやりと薄汚れていた。
そんな道を十分ばかり歩いてガソリンスタンドの角を右に曲ると小さな商店街がありcまん中あたりに「小林書店」という看板が見えた。たしかに大きな店ではなかったけれどc僕が緑の話から想像していたほど小さくはなかった。ごく普通の町のごく普通の本屋だった。僕が子供の頃c発売日を待ちかねて少年週刊誌を買いに走っていったのと同じような本屋だった。小林書店の前に立っていると僕はなんとなく懐かしい気分になった。どこの町にもこういう本屋があるのだ。
店はすっかりシャッターをおろしcシャッターには「週刊文春毎週木曜日発売」と書いてあった。十二時にはまだ十五分ほど間があったがc水仙の花を持って商店街を歩いて時間をつぶすのもあまり気が進まなかったのでc僕はシャッターのわきにあるベルを押してc二c三歩後ろにさがって返事を待った。十五秒くらい待ったが返事はなかった。もう一度ベルを押したものかどうか迷っているとc上の方でガラガラと窓の開く音がした。見上げると緑が窓から首を出して手を振っていた。
「シャッター開けて入ってらっしゃいよ」と彼女はどなった。
「ちょっと早かったけどcいいかな」と僕もどなりかえした。
「かまわないわよcちっとも。二階に上がってきてよ。私c今ちょっと手が放せないの」そしてまたガラガラと窓が閉まった。
僕はとんでもなく大きい音を立ててシャッターを一メートルほど押しあげc身をかがめて中に入りcまたシャッターを下ろした。店の中はまっ暗かった。土間どまからあがったところは簡単な応接室のようになっていてcソファセットが置いてあった。それほど広くはない部屋でc窓からは一昔前のポーランド映画みたいなうす暗い光がさしこんでいた。左手には倉庫のような物置のようなスペースがありc便所のドアも見えた。右手の急な階段を用心ぶかく上がっていくと二階に出た。二階は一階に比べると格段に明るかったので僕は少なからずホッとした。
「ねえcこっち」とどこかで緑の声がした。階段を上がったところ右手に食堂のような部屋がありcその奥に台所があった。家そのものは旧かったがc台所はつい最近改築されたらしくc流し台も蛇口も収納棚もぴかぴかに新しかった。そしてそこで緑が食事の仕度をしていた。鍋で何かを煮るぐつぐつという音がしてc魚を焼く匂いがした。
「冷蔵庫にビールが入ってるからcそこに座って飲んでてくれる」と緑がちらっとこちらを見て言った。僕は冷蔵庫から缶ビールをだしてテーブルに座って飲んだ。ビールは半年くらいそこに入ってたんじゃないかと思えるくらいよく冷えていた。テーブルの上には小さな白い灰皿と新聞と醤油さしがのっていた。メモ用紙とボールペンもあってcメモ用紙には電話番号と買物の計算らしい数字が書いてあった。
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