正文 第14节
パトカーが残って路上でライトをぐるぐると回転させていた。どこかからやってきた二羽の鴉が電柱のてっぺんにとまって地上の様子を眺めていた。
火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたいだった。体の力を抜いてぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして殆んど口をきかなかった。
「疲れたの」と僕は訊いた。
「そうじゃないのよ」と緑は言った。「久しぶりに力を抜いてただけなの。ほおっとして」
「僕は緑の目を見るとcミドリも僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱いてc口づけした。緑はほんの少しだけびくっと肩を動かしたけれどcすぐまた体の力を抜いて目を閉じた。五秒か六秒c我々はそっと唇をあわせていた。初秋の太陽が彼女の頬の上にまつ毛の影を落としてcそれが細かく震えているのが見えた。それはやさしく穏やかでcそして何処に行くあてもない口づけだった。午後の日だまりの中で物干し場に座ってビールを飲んで火事見物をしていなかったとしたらc僕はその日緑に口づけなんかしなかっただろうしcその気持は彼女の方も同じだったろうと思う。僕らは物干し場からきらきらと光る家々の屋根や煙や赤とんぼやそんなものをずっと眺めていてcあたたかくて親密な気分になっていてcそのことをなんかの形で残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイプの口づけだった。しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるようにcある種の危険がまったく含まれていないというわけではなかった。
最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そしてなんだか言いにくそうに自分につきあっている人がいるのだと言った。それはなんとなくわかってると僕は言った。
「あなたには好きな女の子いるの」
「いるよ」
「でも日曜日はいつも暇なのね」
「とても複雑なんだ」と僕は言った。
そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去っていることを知った。
五時に僕はアルバイトに行くからと言って緑の家を出た。一緒に外にでて軽く食事しないかと誘ってみたがc電話がかかってくるかもしれないからとc彼女は断った。
「一日中家の中にいて電話を待ってなきゃいけないなんて本当に嫌よね。一人きりでいるとねc身体がすこしずつ腐っていくような気がするのよ。だんだん腐って溶けて最後には緑色のとろっとした液体だけになってねc地底に吸いこまれていくの。そしてあとには服だけが残るの。そんな気がするわね日じっと待ってると」
「もしまた電話待ちするようなことがあったら一緒につきあうよ。昼ごはんつきで」と僕は言った。
「いいわよ。ちゃんと食後の火事も用意しておくから」と緑は言った。
*
翌日の「演劇史2」の講義に緑は姿を見せなかった。講義が終わると学生食堂に入って一人で冷たくてまずいランチを食べcそれから日なたに座ってまわりの風景を眺めた。すぐとなりでは女子学生が二人でとても長いたち話をつづけていた。一人は赤ん坊でも抱くみたいに大事そうにテニスラケットを胸に抱えcもう一人は本を何冊かとレナードバーンスタインのlpを待っていた。ふたりともきれいな子でcひどく楽しそうに話をしていた。クラブハウスの方からは誰かがベースの音階練習をしている音が聞こえてきた。ところどころに四c五人の学生のグループがいてc彼らは何やかやについて好き勝手ない件を表明したり笑ったりどなったりしていた。駐車場にはスケートボードで遊んでいる連中がいた。革かばんを抱えた教授がスケートボードをよけるようにしてそこを横切っていた。中庭ではヘルメットをかぶった女子学生が地面にかがみこむようにして米帝のアジア侵略がどうしたこうしたという立て看板を書いていた。いつもながらの大学の昼休みの風景だった。しかし久しぶりに改めてそんな風景を眺めているうちに僕はふとある事実に気づいた。人々はみんなそれぞれに幸せそうに見えるのだ。彼らが本当に幸せなのかあるいはただ単にそう見えるだけなのかわからない。でもとにかくその九月の終わりの気持ちの良い昼下がりc人々は人々はみんなしあわせそうに見えたしcそのおかげで僕はいつになく淋しい思いをした。僕は一人だけがその風景に馴染んでいないように思えたからだ。
でも考えて見ればこの何年かのあいだcいったいどんな風景に馴染んてきたというのだと僕は思った。僕が覚えている最後の親密な光景はキズキと二人で玉を撞いた港の近くのビリヤード場の光景だった。そしてその夜にはキズキはもう死んでしまいcそれ以来僕と世界とのあいだには何かしらぎくしゃくとして冷かな空気が入りこむことになってしまったのだ。僕にとってキズキという男の存在はいったいなんだったんだろうと考えてみた。でもその答えを見つけることはできなかった。僕にわかるのはキズキの死によって僕のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が完全に永遠に損なわれてしまったらしいということだけだった。僕はそれをはっきりと感じ理解することができた。しかしそれが何を意味しcどのような結果をもたらすことになるのかということは全く理解の外にあった。
僕は長いあいだそこに座ってキャンパスの風景とそこを行き来する人々を眺めて時間をつぶした。ひょっとして緑に会えるかもしれないとも思ったがc結局その日彼女の姿を見ることはなかった。昼休みが終ると僕は図書室に行ってドイツ語の予習をした。
*
その週の土曜日の午後に永沢さんが僕の部屋に来てcよかったら今夜あそびにいかないかc外泊許可はとってやるからと言った。いいですよcと僕は言った。この一週間ばかり僕の頭はひどくもやもやとしていたc誰とでもいいから寝てみたいという気分だったのだ。
僕は夕方風呂に入って髭を剃りcポロシャツの上にコットンの上着を着た。そして永沢さんと二人で食堂で夕食をとりcバスに乗って新宿の町に出た。新宿三丁目の喧騒の中でバスを降りcそのへんをぶらぶらしてからいつも行く近くのバーに入って適当な女の子がやってくるのを待った。女同士の客が多いのが特徴の店だったのだがcその日に限って女の子はまったくと言ってもいいくらい我々のまわりには近づいてこなかった。僕らは酔っ払わない程度にウィスキーソーダをちびちびとすすりながら二時間近くそこにいた。愛想の良さそうな女の子の二人組がカウンターに座ってギムレットとマルガリータを注文した。早速永沢さんが話しかけに行ったがc二人は男友だちと待ちあわせていた。それでも僕らはしばらく四人で親しく話をしていたのだがc待ちあわせの相手が来ると二人はそちらにいってしまった。
店を変えようといって永沢さんは僕をもう一軒のバーにつれていった。少し奥まったところにある小さな店でc大方の客はもうできあがって騒いでいた。奥のテーブルに三人組の女の子がいたのでc我々はそこに入って五人で話をした。雰囲気は悪くなかった。みんなけっこう良い気分になっていた。しかし店を変えて少し飲まないかと誘うとc女の子たちは私たちもうそろそろ帰らなくちゃ門限があるんだものcと言った。三人ともどこかの女子大の寮暮らしだったのだ。まったくついてない一日だった。そのあとも店を変えてみたが駄目だった。どういうわけか女の子が寄りついてくるという気配がまるでないのだ。
十一時半になって今日は駄目だなと永沢さんはが言った。
「悪かったなcひっぱりまわしちゃって」と彼は言った。
「かまいませんよc僕は。永沢さんにもこういう日があるんだというのがわかっただけでも楽しかったですよ」と僕は言った。
「年に一回くらいあるんだcこういうの」と彼は言った。
正直な話しc僕はもうセックスなんてどうだっていいやという気分になっていた。土曜日の新宿の夜の喧騒の中を三時間半もうろうろしてcやらアルコールやらのいりまじったわけのわからないエネルギーを眺めているうちにc僕自身のなんてとるに足らない卑小なものであるように思えてきたのだ。
「これからどうするのcワタナベ」と永沢さんが僕に訊いた。
「オールナイトの映画でも観ますよ。しばらく映画なんて観てないから」
「じゃあ俺はハツミのところに行くよ。いいかな」
「いけないわけがないでしょう」と僕は笑って言った。
「もしよかったら泊まらせてくれる女の子の一人くらい紹介してやれるけどcどうだ」
「いやc映画みたいですねc今日は」
「悪かったな。いつか埋め合わせするよ」と彼は言った。そして人混みの中に消えていった。僕はハンバーガースタンドに入ってチーズバーカーを食べc熱いコーヒーを飲んで酔いをさましてから近くの二番館で卒業を観た。それほど面白い映画とも思えなかったけれどc他にやることもないのでcそのままもう一度くりかえしてその映画を観た。そして映画館を出て午前四時感のひやりとした新宿の町を考えごとをしながらあてもなくぶらぶらと歩いた。
歩くのに疲れると僕は終夜営業の喫茶店に入ってコーヒーを飲んで本を読みながら始発電車を待つ人々で混みあってきた。ウェイターが僕のところにやってきたcすみませんが相席お願いしますと言った。いいですよcと僕は言った。どうせ僕は本を読んでいるだけだしc前に誰が座ろうが気にもならなかった。
僕と同席したのは二人の女の子だった。たぶん僕と同じくらいの年だろう。どちらも美人というわけではないがc感じのわるくない女の子たちだった。化粧も服装もごくまともでc朝の五時前に歌舞伎町をうろうろしているようなタイプには見えなかった。きっと何かの事情で終電に乗り遅れるか何かしたのかもしれないなと僕は思った。彼女たちは同席の相手が僕だったことにちょっとほっとしたみたいだった。僕はきちんとした格好をしていたしc夕方に髭も剃っていたしcおまけにトーマスマンの魔の山を一心不乱に読んでいた。
女の子の一人は大柄でcグレーのヨットバーカーにホワイトジーンズをはきc大きなビニールレザーの鞄を持ちc貝のかたちの大きなイヤリングを両耳につけていた。もう一人は小柄で眼鏡をかけc格子柄のシャツの上にブルーのカーディガンを着てc指にはターコイズブルーの指輪をはめていた。小柄の方の本奈子のはときどき眼鏡をとって指先で目を押さえるのが癖らしかった。
彼女たちはどちらもカフェオレとケーキを注文しc何事かを小声で相談しながら時間をかけてケーキを食べcコーヒーを飲んだ。大柄の女の子は何回か首をひねりc小柄な女の子は何回か首を横に振った。マービンゲイやらビージーズやらの音楽が大きな音でかかっていたので話の内容まで聴きとれなかったけれどcどうやら小柄な女の子が悩むか怒るかしてc大柄の子がそれをまあまあとなだめているような具合だった。僕は本を読んだりc彼女たちを観察したりを交互にくりかえしていた。
小柄な女の子がショルダーバッグを抱えるようにして洗面所に行ってしまうとc大柄な方の女の子が僕に向かってcあのすみませんcと言った。僕は本を置いて彼女を観た。
「このへんにまだお酒飲めるおご御存知ありませんか」と彼女は言った。
「朝の五時すぎにですか」と僕はびっくりして訊きかえした。
「ええ」
「ねえc朝の五時二十分っていえば大邸の人は酔いをさまして家に寝に帰る時間ですよ。」
「ええcそれはよくわかってはいるんですけれど」と彼女はすごく恥ずかしそうに言った。
「友だちがどうしてもお酒のみたいっていうんです。いろいろとまあ事情があって」
「家に帰って二人でお酒飲むしかないんじゃないかな」
「でも私c朝の7時半ごろの電車で長野にいっちゃうんです。」
「じゃあ自動販売機でお酒買ってcそのへんに座って飲むしか手はないみたいですね」
申しわけないが一緒につきあってくれないかと彼女は言った。女の子二人でそんなことできないからcと。僕はこの当時の新宿の町でいろいろと奇妙な体験をしたけれどc朝の五時二十分に知らない女の子に酒を飲もうと誘われたのはこれが初めてだった。断るのも面倒だったしcまあ暇でもあったから僕は近くの自動販売機で日本酒を何本かとつまみを適当に買いc彼女たちと一緒にそれを抱えて西口の原っぱに行きcそこで即座の宴会のようなものを開いた。
話を聞くと二人は同じ旅行代理店につとめていた。どちらも今年短大を出て勤めはじめたばかりでc仲良くしだった。小柄な方の女の子には恋人がいて一年ほど感じよくつきあっていたのだがc最近になって彼が他の女と寝ていることがわかってcそれで彼女はひどく落ちこんでいた。それが大まかな話だった。大柄な方の女の子は今日はお兄さんの結婚式があって昨日の夕方には長野の実家に帰ることになっていたのだがc友だちにつきあって一晩新宿でよるあかししc日曜日の朝いちばんの特急で戻ることにしたのだ。
「でもさcどうして彼が他の人と寝てることがわかったの」と僕は小柄な子に訊いてみた。
小柄な方の女の子は日本酒をちびちびと飲みながら足もとの雑草をむしっていた。「彼の部屋のドアを開けたらc目の前でやってたんだものcそんなのわかるもわかからないもないでしょう」
「いつの話cそれ」
「おとといの夜」
「ふうん」と僕は言った。「ドアは鍵があいてたわけ」
「そう」
「どうして鍵を閉めなかったんだろう」と僕は言った。
「知らないわよcそんなこと。知るわけがないでしょう」
「でもそういうの本当にショックだと思わないひどいでしょう彼女の気持ちはどうなるのよ」とひとのよさそうな大柄の女の子が言った。
「なんとも言えないけど度よく話しあってみた方がいいよね。許す許さないの問題になると思うけどcあとは」と僕は言った。
「誰にも私の気持ちなんかわからないわよ」と小柄な女の子があいかわらずぷちぷちと草をむしりながら吐き捨てるように言った。
カラスの群れが西の方からやってきて小田急デパートの上を超えていった。もう夜はすっかり明けていた。あれこれと三人で話をしているうちに大柄な女の子が電車に乗る時刻が近づいてきたのでc僕は残った酒を西口の地下にいる浮浪者にやりc入場券を買って彼女を見送った。彼女の乗った列車が見えなくなってしまうとc僕と小柄な女の子はどちらから誘うともなくホテルに入った。僕の方も彼女の方もとくにお互いと寝てみたいと思ったわけではないのだがcただ寝ないことにはおさまりがつかなかったのだ。
ホテルに入ると僕は先に裸になって風呂に入りc風呂につかりながら殆んどやけでビールを飲んだ。女の子もあとから入ってきてc二人で浴槽の中でごろんと横になって黙ってビールを飲んでいた。どれだけ飲んでも酔いもまわらなかったしc眠くもなかった。彼女の肌は白くcつるつるとしていてc脚のかたちがとてもきれいだった。僕が脚のことを賞めると彼女は素っ気ない声でありがとうと言った。
しかしベッドに入ると彼女はまったく別人のようになった。僕の手の動きに合わせて彼女は敏感に反応しc体をくねらせc声をあげた。僕は中に入ると彼女
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火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたいだった。体の力を抜いてぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして殆んど口をきかなかった。
「疲れたの」と僕は訊いた。
「そうじゃないのよ」と緑は言った。「久しぶりに力を抜いてただけなの。ほおっとして」
「僕は緑の目を見るとcミドリも僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱いてc口づけした。緑はほんの少しだけびくっと肩を動かしたけれどcすぐまた体の力を抜いて目を閉じた。五秒か六秒c我々はそっと唇をあわせていた。初秋の太陽が彼女の頬の上にまつ毛の影を落としてcそれが細かく震えているのが見えた。それはやさしく穏やかでcそして何処に行くあてもない口づけだった。午後の日だまりの中で物干し場に座ってビールを飲んで火事見物をしていなかったとしたらc僕はその日緑に口づけなんかしなかっただろうしcその気持は彼女の方も同じだったろうと思う。僕らは物干し場からきらきらと光る家々の屋根や煙や赤とんぼやそんなものをずっと眺めていてcあたたかくて親密な気分になっていてcそのことをなんかの形で残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイプの口づけだった。しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるようにcある種の危険がまったく含まれていないというわけではなかった。
最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そしてなんだか言いにくそうに自分につきあっている人がいるのだと言った。それはなんとなくわかってると僕は言った。
「あなたには好きな女の子いるの」
「いるよ」
「でも日曜日はいつも暇なのね」
「とても複雑なんだ」と僕は言った。
そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去っていることを知った。
五時に僕はアルバイトに行くからと言って緑の家を出た。一緒に外にでて軽く食事しないかと誘ってみたがc電話がかかってくるかもしれないからとc彼女は断った。
「一日中家の中にいて電話を待ってなきゃいけないなんて本当に嫌よね。一人きりでいるとねc身体がすこしずつ腐っていくような気がするのよ。だんだん腐って溶けて最後には緑色のとろっとした液体だけになってねc地底に吸いこまれていくの。そしてあとには服だけが残るの。そんな気がするわね日じっと待ってると」
「もしまた電話待ちするようなことがあったら一緒につきあうよ。昼ごはんつきで」と僕は言った。
「いいわよ。ちゃんと食後の火事も用意しておくから」と緑は言った。
*
翌日の「演劇史2」の講義に緑は姿を見せなかった。講義が終わると学生食堂に入って一人で冷たくてまずいランチを食べcそれから日なたに座ってまわりの風景を眺めた。すぐとなりでは女子学生が二人でとても長いたち話をつづけていた。一人は赤ん坊でも抱くみたいに大事そうにテニスラケットを胸に抱えcもう一人は本を何冊かとレナードバーンスタインのlpを待っていた。ふたりともきれいな子でcひどく楽しそうに話をしていた。クラブハウスの方からは誰かがベースの音階練習をしている音が聞こえてきた。ところどころに四c五人の学生のグループがいてc彼らは何やかやについて好き勝手ない件を表明したり笑ったりどなったりしていた。駐車場にはスケートボードで遊んでいる連中がいた。革かばんを抱えた教授がスケートボードをよけるようにしてそこを横切っていた。中庭ではヘルメットをかぶった女子学生が地面にかがみこむようにして米帝のアジア侵略がどうしたこうしたという立て看板を書いていた。いつもながらの大学の昼休みの風景だった。しかし久しぶりに改めてそんな風景を眺めているうちに僕はふとある事実に気づいた。人々はみんなそれぞれに幸せそうに見えるのだ。彼らが本当に幸せなのかあるいはただ単にそう見えるだけなのかわからない。でもとにかくその九月の終わりの気持ちの良い昼下がりc人々は人々はみんなしあわせそうに見えたしcそのおかげで僕はいつになく淋しい思いをした。僕は一人だけがその風景に馴染んでいないように思えたからだ。
でも考えて見ればこの何年かのあいだcいったいどんな風景に馴染んてきたというのだと僕は思った。僕が覚えている最後の親密な光景はキズキと二人で玉を撞いた港の近くのビリヤード場の光景だった。そしてその夜にはキズキはもう死んでしまいcそれ以来僕と世界とのあいだには何かしらぎくしゃくとして冷かな空気が入りこむことになってしまったのだ。僕にとってキズキという男の存在はいったいなんだったんだろうと考えてみた。でもその答えを見つけることはできなかった。僕にわかるのはキズキの死によって僕のアドレセンスとでも呼ぶべき機能の一部が完全に永遠に損なわれてしまったらしいということだけだった。僕はそれをはっきりと感じ理解することができた。しかしそれが何を意味しcどのような結果をもたらすことになるのかということは全く理解の外にあった。
僕は長いあいだそこに座ってキャンパスの風景とそこを行き来する人々を眺めて時間をつぶした。ひょっとして緑に会えるかもしれないとも思ったがc結局その日彼女の姿を見ることはなかった。昼休みが終ると僕は図書室に行ってドイツ語の予習をした。
*
その週の土曜日の午後に永沢さんが僕の部屋に来てcよかったら今夜あそびにいかないかc外泊許可はとってやるからと言った。いいですよcと僕は言った。この一週間ばかり僕の頭はひどくもやもやとしていたc誰とでもいいから寝てみたいという気分だったのだ。
僕は夕方風呂に入って髭を剃りcポロシャツの上にコットンの上着を着た。そして永沢さんと二人で食堂で夕食をとりcバスに乗って新宿の町に出た。新宿三丁目の喧騒の中でバスを降りcそのへんをぶらぶらしてからいつも行く近くのバーに入って適当な女の子がやってくるのを待った。女同士の客が多いのが特徴の店だったのだがcその日に限って女の子はまったくと言ってもいいくらい我々のまわりには近づいてこなかった。僕らは酔っ払わない程度にウィスキーソーダをちびちびとすすりながら二時間近くそこにいた。愛想の良さそうな女の子の二人組がカウンターに座ってギムレットとマルガリータを注文した。早速永沢さんが話しかけに行ったがc二人は男友だちと待ちあわせていた。それでも僕らはしばらく四人で親しく話をしていたのだがc待ちあわせの相手が来ると二人はそちらにいってしまった。
店を変えようといって永沢さんは僕をもう一軒のバーにつれていった。少し奥まったところにある小さな店でc大方の客はもうできあがって騒いでいた。奥のテーブルに三人組の女の子がいたのでc我々はそこに入って五人で話をした。雰囲気は悪くなかった。みんなけっこう良い気分になっていた。しかし店を変えて少し飲まないかと誘うとc女の子たちは私たちもうそろそろ帰らなくちゃ門限があるんだものcと言った。三人ともどこかの女子大の寮暮らしだったのだ。まったくついてない一日だった。そのあとも店を変えてみたが駄目だった。どういうわけか女の子が寄りついてくるという気配がまるでないのだ。
十一時半になって今日は駄目だなと永沢さんはが言った。
「悪かったなcひっぱりまわしちゃって」と彼は言った。
「かまいませんよc僕は。永沢さんにもこういう日があるんだというのがわかっただけでも楽しかったですよ」と僕は言った。
「年に一回くらいあるんだcこういうの」と彼は言った。
正直な話しc僕はもうセックスなんてどうだっていいやという気分になっていた。土曜日の新宿の夜の喧騒の中を三時間半もうろうろしてcやらアルコールやらのいりまじったわけのわからないエネルギーを眺めているうちにc僕自身のなんてとるに足らない卑小なものであるように思えてきたのだ。
「これからどうするのcワタナベ」と永沢さんが僕に訊いた。
「オールナイトの映画でも観ますよ。しばらく映画なんて観てないから」
「じゃあ俺はハツミのところに行くよ。いいかな」
「いけないわけがないでしょう」と僕は笑って言った。
「もしよかったら泊まらせてくれる女の子の一人くらい紹介してやれるけどcどうだ」
「いやc映画みたいですねc今日は」
「悪かったな。いつか埋め合わせするよ」と彼は言った。そして人混みの中に消えていった。僕はハンバーガースタンドに入ってチーズバーカーを食べc熱いコーヒーを飲んで酔いをさましてから近くの二番館で卒業を観た。それほど面白い映画とも思えなかったけれどc他にやることもないのでcそのままもう一度くりかえしてその映画を観た。そして映画館を出て午前四時感のひやりとした新宿の町を考えごとをしながらあてもなくぶらぶらと歩いた。
歩くのに疲れると僕は終夜営業の喫茶店に入ってコーヒーを飲んで本を読みながら始発電車を待つ人々で混みあってきた。ウェイターが僕のところにやってきたcすみませんが相席お願いしますと言った。いいですよcと僕は言った。どうせ僕は本を読んでいるだけだしc前に誰が座ろうが気にもならなかった。
僕と同席したのは二人の女の子だった。たぶん僕と同じくらいの年だろう。どちらも美人というわけではないがc感じのわるくない女の子たちだった。化粧も服装もごくまともでc朝の五時前に歌舞伎町をうろうろしているようなタイプには見えなかった。きっと何かの事情で終電に乗り遅れるか何かしたのかもしれないなと僕は思った。彼女たちは同席の相手が僕だったことにちょっとほっとしたみたいだった。僕はきちんとした格好をしていたしc夕方に髭も剃っていたしcおまけにトーマスマンの魔の山を一心不乱に読んでいた。
女の子の一人は大柄でcグレーのヨットバーカーにホワイトジーンズをはきc大きなビニールレザーの鞄を持ちc貝のかたちの大きなイヤリングを両耳につけていた。もう一人は小柄で眼鏡をかけc格子柄のシャツの上にブルーのカーディガンを着てc指にはターコイズブルーの指輪をはめていた。小柄の方の本奈子のはときどき眼鏡をとって指先で目を押さえるのが癖らしかった。
彼女たちはどちらもカフェオレとケーキを注文しc何事かを小声で相談しながら時間をかけてケーキを食べcコーヒーを飲んだ。大柄の女の子は何回か首をひねりc小柄な女の子は何回か首を横に振った。マービンゲイやらビージーズやらの音楽が大きな音でかかっていたので話の内容まで聴きとれなかったけれどcどうやら小柄な女の子が悩むか怒るかしてc大柄の子がそれをまあまあとなだめているような具合だった。僕は本を読んだりc彼女たちを観察したりを交互にくりかえしていた。
小柄な女の子がショルダーバッグを抱えるようにして洗面所に行ってしまうとc大柄な方の女の子が僕に向かってcあのすみませんcと言った。僕は本を置いて彼女を観た。
「このへんにまだお酒飲めるおご御存知ありませんか」と彼女は言った。
「朝の五時すぎにですか」と僕はびっくりして訊きかえした。
「ええ」
「ねえc朝の五時二十分っていえば大邸の人は酔いをさまして家に寝に帰る時間ですよ。」
「ええcそれはよくわかってはいるんですけれど」と彼女はすごく恥ずかしそうに言った。
「友だちがどうしてもお酒のみたいっていうんです。いろいろとまあ事情があって」
「家に帰って二人でお酒飲むしかないんじゃないかな」
「でも私c朝の7時半ごろの電車で長野にいっちゃうんです。」
「じゃあ自動販売機でお酒買ってcそのへんに座って飲むしか手はないみたいですね」
申しわけないが一緒につきあってくれないかと彼女は言った。女の子二人でそんなことできないからcと。僕はこの当時の新宿の町でいろいろと奇妙な体験をしたけれどc朝の五時二十分に知らない女の子に酒を飲もうと誘われたのはこれが初めてだった。断るのも面倒だったしcまあ暇でもあったから僕は近くの自動販売機で日本酒を何本かとつまみを適当に買いc彼女たちと一緒にそれを抱えて西口の原っぱに行きcそこで即座の宴会のようなものを開いた。
話を聞くと二人は同じ旅行代理店につとめていた。どちらも今年短大を出て勤めはじめたばかりでc仲良くしだった。小柄な方の女の子には恋人がいて一年ほど感じよくつきあっていたのだがc最近になって彼が他の女と寝ていることがわかってcそれで彼女はひどく落ちこんでいた。それが大まかな話だった。大柄な方の女の子は今日はお兄さんの結婚式があって昨日の夕方には長野の実家に帰ることになっていたのだがc友だちにつきあって一晩新宿でよるあかししc日曜日の朝いちばんの特急で戻ることにしたのだ。
「でもさcどうして彼が他の人と寝てることがわかったの」と僕は小柄な子に訊いてみた。
小柄な方の女の子は日本酒をちびちびと飲みながら足もとの雑草をむしっていた。「彼の部屋のドアを開けたらc目の前でやってたんだものcそんなのわかるもわかからないもないでしょう」
「いつの話cそれ」
「おとといの夜」
「ふうん」と僕は言った。「ドアは鍵があいてたわけ」
「そう」
「どうして鍵を閉めなかったんだろう」と僕は言った。
「知らないわよcそんなこと。知るわけがないでしょう」
「でもそういうの本当にショックだと思わないひどいでしょう彼女の気持ちはどうなるのよ」とひとのよさそうな大柄の女の子が言った。
「なんとも言えないけど度よく話しあってみた方がいいよね。許す許さないの問題になると思うけどcあとは」と僕は言った。
「誰にも私の気持ちなんかわからないわよ」と小柄な女の子があいかわらずぷちぷちと草をむしりながら吐き捨てるように言った。
カラスの群れが西の方からやってきて小田急デパートの上を超えていった。もう夜はすっかり明けていた。あれこれと三人で話をしているうちに大柄な女の子が電車に乗る時刻が近づいてきたのでc僕は残った酒を西口の地下にいる浮浪者にやりc入場券を買って彼女を見送った。彼女の乗った列車が見えなくなってしまうとc僕と小柄な女の子はどちらから誘うともなくホテルに入った。僕の方も彼女の方もとくにお互いと寝てみたいと思ったわけではないのだがcただ寝ないことにはおさまりがつかなかったのだ。
ホテルに入ると僕は先に裸になって風呂に入りc風呂につかりながら殆んどやけでビールを飲んだ。女の子もあとから入ってきてc二人で浴槽の中でごろんと横になって黙ってビールを飲んでいた。どれだけ飲んでも酔いもまわらなかったしc眠くもなかった。彼女の肌は白くcつるつるとしていてc脚のかたちがとてもきれいだった。僕が脚のことを賞めると彼女は素っ気ない声でありがとうと言った。
しかしベッドに入ると彼女はまったく別人のようになった。僕の手の動きに合わせて彼女は敏感に反応しc体をくねらせc声をあげた。僕は中に入ると彼女
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