正文 第15节
は背中にぎゅっと爪を立ててcオルガズムが近づくと十六回も他の男の名前を呼んだ。僕は射精を遅らせるために一生懸命回数を数えていたのだ。そしてそのまま我々は眠った。
十二時半に目を覚ましたとき彼女の姿はなかった。手紙もメッセージもなかった。変な時間に酒を飲んだものでc頭の片方が妙に重くなっているような気がした。僕はシャワーに入って眠気ねむけをとりc髭を剃ってc裸のまま椅子に座って冷蔵庫のジュースを一本飲んだ。そして昨夜起ったことを順番にひとつひとつ思いだしてみた。どれもガラス板に二c三枚あいだにはさんだみたいに奇妙によそよそしく非現実的に感じられたがc間違いなく僕の身に実際に起った出来事だった。テーブルの上にビールを飲んだグラスが残っていたしc洗面所には使用済みの歯ブラシがあった。
僕は新宿で簡単に昼食を食べcそれから電話ボックスに入って小林緑に電話をかけてみた。ひょっとしたら彼女は今日もまた一人で電話番をしているのではないかと思ったからだ。しかし十五回コールしても電話には誰も出なかった。二十分後にもう一度電話してみたが結果はやはり同じだった。僕はバスに乗って寮に戻った。入口の郵便受けに僕あての速達封筒が入っていた。直子からの手紙だった。
五
「手紙をありがとう」と直子は書いていた。手紙は直子の実家から「ここ」にすぐ転送されてきた。手紙をもらったことは迷惑なんかではないしc正直言ってとても嬉しかった。実は自分の方からあなたにそろそろ手紙を書かなくてはと思っていたところなのだcとその手紙にはあった。
そこまで読んでから僕は部屋の窓をあけc上着を脱ぎcベッドに腰かけた。近所の鳩小屋からホオホオという鳩の声が聞こえてきた。風がカーテンを揺らせた。僕は直子の送ってきた七枚の便箋を手にしたままcとりとめない想いに身を委ねていた。その最初の何行かを読んだだけでc僕のまわりの現実の世界がすうっとその色を失っていくように感じられた。僕は目を閉じc長い時間をかけて気持ちをひとつにまとめた。そして深呼吸をしてからそのつづきを読んだ。
「ここに来てもう四ヶ月近くになります」と直子はつづけていた。
「私はその四ヶ月のあいだあなたのことをずいぶん考えていました。そして考えれば考えるほどc私は自分があなたに対して公正ではなかったのではないかと考えるようになってきました。私はあなたに対してcもっときちんとした人間として公正に振舞うべきではなかったのかと思うのです。
でもこういう考え方ってあまりまともじゃないかもしれませんね。どうしてかというと私くらいの年の女の子は公正なんていう言葉はまず使わないからです。普通の若い女の子にとってはc物事が公正かどうかなんていうのは根本的にどうでもいいことだからです。ごく普通の女の子は何かが公正かどうかよりは何が美しいかとかどうすれば自分が幸せになれるかとかcそういうことを中心に物事を考えるものです。公正なんていうのはどう考えても男の人の使う言葉ですね。でも今の私にはこの公正という言葉はとてもぴったりしているように感じられるのです。たぶん何が美しいかとかどうすれば幸せになるかとかいうのは私にとってはとても面倒でいりくんだ命題なのでcつい他の基準にすがりついてしまうわけです。たとえば公正であるかとかc正直であるかとかc普遍的であるかとかね。
しかし何はともあれc私は自分があなたに対して公正ではなかったと思います。そしてそれでずいぶんあなたを引きずりまわしたりc傷つけたりしたんだろうと思います。でもそのことでc私だって自分自身を引きずりまわしてc自分自身を傷つけてきたのです。言いわけするわけでもないしc自己弁護するわけでもないけれどc本当にそうなのです。もし私があなたの中に何かの傷を残したとしたらcそれはあなただけの傷ではなくてc私の傷でもあるのです。たからそのことで私を憎んだりしないで下さい。私は不完全な人間です。私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間です。だからこと私はあなたに憎まれたくないのです。あなたに憎まれたりすると私は本当にバラバラになってしまします。私はなたのように自分の殻の中にすっと入って何かをやりすごすということができないのです。あなたは本当はどうなのか知らないけれどc私にはなんとなくそう見えちゃうことがあるのです。だから時々あなたのことがすごくうらやましくなるしcあなたを必要以上に引きずりまわることになったのもあるいはそのせいかもしれません。
こういう物の見方ってあるいは分析的にすぎるのかもしれませんね。そう思いませんかここの治療は決して分析的にすぎるという物ではありません。でも私のような立場に置かれて何ヶ月も治療を受けているとcいやでも多かれ少なかれ分析的になってしまうものなのです。何かがこうなったのはこういうせいだcそしてそれはこれを意味しcそれ故にこうなのだcとかね。こういう分析が世界を単純化しようとしているのか細分化しようとしているのか私にはよくわかりません。
しかし何はともあれc私は一時に比べるとずいぶん回復したように自分でも感じますしcまわりの人々もそれを認めてくれます。こんあ風に落ち着いて手紙を書けるのも久しぶりのことです。七月にあなたに出した手紙は身をしぼるような思いで書いたのですが正直言ってc何を書いたのか全然思い出せません。ひどい手紙じゃなかったかしらc今回はすごく落ち着いて書いています。きれいな空気c外界から遮断された静かな世界c規則正しい生活c毎日の運動cそういうものがやはり私には必要だったようでう。誰かに手紙を書けるというのがいいものですね。誰かに自分の思いを伝えたいと思いc机の前に座ってペンをとりcこうして文章が書けるということは本当に素敵です。もちろん文章にしてみると自分の言いたいことのほんの一部しか表現できないのだけれどcでもそれでもかまいません。誰かに何かを書いてみたいという気持ちになれるだけで今の私には幸せなのです。そんなわけでc私は今あなたに手紙を書いています。今は夜の七時半でc夕食を済ませcお風呂にも入り終ったところです。あたりはしんとしてc窓の外は真っ暗です。光ひとつ見えません。いつもは星がとてもきれいに見えるのですが今日は曇っていて駄目です。ここにいる人たちはみんなとても星にくわしくてcあれが乙女座だとか射手座だとか私に教えてくれます。たぶん日が暮れると何もすることがなくなるので嫌でもくわしくなっちゃうんでしょうね。そしてそれはと同じような理由でcここの人々は鳥や花や虫のこともとてもよく知っています。そういう人たちと話しているとc私は自分がいろんなことについていかに無知であったかということを思い知らされますしcそんな風に感じるのはなかなか気持ちの良いものです。
ここには全部で七十人くらいの人が入って生活しています。その他にスタッフお医者c看護婦c事務cその他いろいろが二十人ちょっといます。とても広いところですからcこれは決して多い数字ではありません。それどころか閑散としていると表現した方が近いかもしれませんね。広々としてc自然に充ちていてc人々はみんな穏やかに暮らしています。あまりにも穏やかなのでときどきここが本当のまともな世界なんじゃないかという気がするくらいです。でもcもちろんそうではありません。私たちはある種の前提のもとにここで暮らしているからcこういう風にもなれるのです。
私はテニスとバスケットボールをやっています。バスケットボールのチームは患者というのは嫌な言葉ですが仕方ありませんねとスタッフが入りまじって構成されています。でもゲームに熱中しているうちに私には誰が患者で誰がスタッフなのかだんだんわからなくなってきます。これはなんだか変なものです。変な話だけれどcゲームをしながらまわりを見ていると誰も彼も同じくらい歪んでいるように見えちゃうのです。
ある日私の担当医にそのことを言うとc君の感じていることはある意味で正しいのだと言われました。彼は私たちがここにいるのはその歪みを矯正するためではなくcその歪みに馴れるためなのだといいます。私たちの問題点のひとつはその歪みを認めて受けれることができないというところにあるのだcと。人間一人ひとりが歩き方に癖があるようにc感じ方や考え方や物の見方にも癖があるしcそれはなおそうと思っても急になおるものではないしc無理になおそうとすると他のところがおかしくなってしまうことになるんだそうです。もちろんこれはすごく単純化した説明だしcそういうのは私たちの抱えている問題のあるひとつの部分にすぎないわけですがcそれでも彼の言わんとすることは私にもなんとなくわかります。私たちはたしかに自分の歪みに上手く順応しきれないでいるのかもしれません。だからその歪みが引き起こす現実的な痛みや苦しみを上手く自分の中に位置づけることができなくてcそしてそういうものから遠離るためにここに入っているわけです。ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむしc他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たちが歪んでいることを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私たちはインディアンが頭にその部族をあらわす羽根をつけるようにc歪みを身につけています。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているのです。
運動をする他にはc私たちは野菜を作っています。トマトcなすcキウリc西瓜c苺cねぎcキャベツc大根cその他いろいろ。大抵のものは作ります。温室も使っています。ここの人たちは野菜づくりにはとてもくわしいしc熱心です。本を読んだりc専門家を招いたりc朝から晩までどんな肥料がいいだとか地質がどうのとかcそんな話ばかりしています。私も野菜づくりは大好きになりました。いろんな果物や野菜が毎日少しずつ大きくなっていく様子を見るのはとても素敵です。あなたは西瓜を育てたことがありますか西瓜ってcまるで小さな動物みたいな膨らみ方をするんですね。
私たちは毎日そんな採れたての野菜や果物を食べて暮らしています。肉や魚ももちろん出ますけれどcここにいるとそういうを食べたいという気持ちはだんだん少なくなってきます。野菜がとにかく瑞々しくておいしいからです。外に出て山菜やきのこの採取をすることもあります。そういうのにも専門家がいて考えてみれば専門家だらけですねcここはcこれはいいcこれは駄目と教えてくれます。おかげで私はここにきてから三キロも太ってしまいました。ちょうどいい体重というところですね。運動と規則正しいきちんとした食事のせいです。
その他の時間c私たちは本を読んだりcレコードを聴いたりc編みものをしたりしています。tvとかラジオとかはありませんがcその代わりけっこうしっかりした図書館もありますしcレコードライブラリイもあります。レコードライブラリイにはマーラーのシンフォニーの全集からビートルズまで揃っていてc私はいつもここでレコードを借りてc部屋で聴いています。
この施設の問題は一度ここに入ると外に出るのが億劫になるcあるいは怖くなるということですね。私たちはここの中にいる限り平和で穏やかな気持ちになります。自分たちの歪みに対しても自然な気持ちで対することができます。自分たちが回復したと感じます。しかし外の世界が果たして私たちを同じように受容してくれるものかどうかc私には確信が持てないのです。
担当医は私がそろそろ外部の人と接触を持ち始める時期だと言います。外部の人というのはつまり正常な世界の正常な人ということですがcそれいわれてもc私にはあなたの顔しか思い浮ばないのです。正直に言ってc私には両親にはあまり会いたくありません。あの人たちは私のことですごく混乱していてc会って話をしても私はなんだか惨めな気分になるばかりだからです。それに私にはあなたに説明しなくてはならないことがいくつがあるのです。うまく説明できるかどうかはわかりませんがcそれはとても大事なことだしc避けて通ることはできない種類のことなのです。
でもこんなことを言ったからといってc私のことを重荷としては感じないで下さい。私は誰かの重荷にだけはなりたくないのです。私は私に対するあなたの好意を感じるしcそれを嬉しく思うしcその気持ちを正直にあなたに伝えているだけです。たぶん今の私はそういう好意をとても必要としているのです。もしあなたにとってc私の書いたことの何かが迷惑に感じられたとしたら謝ります。許して下さい。前にも書いたようにc私はあなたが思っているより不完全な人間なのです。
ときどきこんな風に思います。もし私とあなたがごく当り前の普通の状況で出会ってcお互いに好意を抱き合っていたとしたらcいったいどうなっていたんだろうと。私がまともでcあなたもまともで始めからまともですねcキズキ君がいなかったとしたらどうなっていただろうcと。でもこのもしはあまりにも大きすぎます。少なくとも私は公正に正直になろうと努力しています。今の私にはそうすることしかできません。そうすることによって私の気持ちを少しでもあなたに伝えたいと思うのです。
この施設は普通の病院とは違ってc面会は原則的に自由です。前日までに電話連絡すればcいつでも会うことができます。食事も一緒にできますしc宿泊の設備もあります。あなたの都合の良いときに一度会いに来て下さい。会えることを楽しみにしています。地図を同封しておきます。長い手紙になってしまってごめんなさい」
僕は最後まで読んでしまうとまた始めから読み返した。そして下に降りて自動販売機でコーラを買ってきてcそれを飲みながらまたもう一度読み返した。そしてその七枚の便箋を封筒に戻しc机の上に置いた。ピンク色の封筒には女の子にしては少しきちんとしすぎているくらいのきちんとした小さな字で僕の名前と住所が書いてあった。僕は机の前に座ってしばらくその封筒を眺めていた。封筒の裏の住所には「阿美寮」と書いてあった。奇妙な名前だった。僕はその名前について五c六分間考えをめぐらせてからcこれはたぶんフランス語のa友だちからとったものだろうと想像した。
手紙を机の引き出しにしまってからc僕は服を着替えて外に出た。その手紙の近くにいると十回も二十回も読み返してしまいそうな気がしたからだ。僕は以前直子と二人でいつもそうしていたようにc日曜日の東京の町をあてもなく一人でぶらぶらと歩いた。彼女の手紙の一行一行を思い出しcそれについて僕なりに思いをめぐらしながらc僕は町の通りから通りへとさまよった。そして日が暮れてから寮に戻りc直子のいる「阿美寮」に長距離電話をかけてみた。受付の女性が出てc僕の用件を聞いた。僕は直子の名前を言いcできることなら明日の昼過ぎに面会に行きたいのだが可能だろうかと訊ねてみた。彼女は僕の名前を聞きc三十分あとでもう一度電話をかけてほしいと言った。
僕は食事のあとで電話をすると同じ女性が出て面会は可能ですのでどうぞお越し下さいと言った。僕は礼を言って電話を切りcナップザックに着替えと洗面用具をつめた。そして眠くなるまでブランディを飲みながら魔の山のつづきを読んだ。それでもやっと眠ることができたのは午前一時を過ぎてからだった。
六
月曜日の朝の七時に目を覚ますと僕は急いで顔を洗って髭を剃りc朝食は食べずにすぐに寮長の部屋に行きc二日ほど山登りしてきますのでよろしくと言った。僕はそれまでにも暇になると何度も小旅行をしていたからc寮長もああと言っただけだった。僕は混んだ通勤電車に乗って東京駅に行きc京都までの新幹線自由席の切符を買いcいちばん早い「ひかり」に文字どおりとび乗りc熱いコーヒーとサンドイッチを朝食がわりに食べた。そして一時間ほどうとうとと眠った。
京都駅についたのは十一時少し前だった。僕は直子の指示に従っ
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十二時半に目を覚ましたとき彼女の姿はなかった。手紙もメッセージもなかった。変な時間に酒を飲んだものでc頭の片方が妙に重くなっているような気がした。僕はシャワーに入って眠気ねむけをとりc髭を剃ってc裸のまま椅子に座って冷蔵庫のジュースを一本飲んだ。そして昨夜起ったことを順番にひとつひとつ思いだしてみた。どれもガラス板に二c三枚あいだにはさんだみたいに奇妙によそよそしく非現実的に感じられたがc間違いなく僕の身に実際に起った出来事だった。テーブルの上にビールを飲んだグラスが残っていたしc洗面所には使用済みの歯ブラシがあった。
僕は新宿で簡単に昼食を食べcそれから電話ボックスに入って小林緑に電話をかけてみた。ひょっとしたら彼女は今日もまた一人で電話番をしているのではないかと思ったからだ。しかし十五回コールしても電話には誰も出なかった。二十分後にもう一度電話してみたが結果はやはり同じだった。僕はバスに乗って寮に戻った。入口の郵便受けに僕あての速達封筒が入っていた。直子からの手紙だった。
五
「手紙をありがとう」と直子は書いていた。手紙は直子の実家から「ここ」にすぐ転送されてきた。手紙をもらったことは迷惑なんかではないしc正直言ってとても嬉しかった。実は自分の方からあなたにそろそろ手紙を書かなくてはと思っていたところなのだcとその手紙にはあった。
そこまで読んでから僕は部屋の窓をあけc上着を脱ぎcベッドに腰かけた。近所の鳩小屋からホオホオという鳩の声が聞こえてきた。風がカーテンを揺らせた。僕は直子の送ってきた七枚の便箋を手にしたままcとりとめない想いに身を委ねていた。その最初の何行かを読んだだけでc僕のまわりの現実の世界がすうっとその色を失っていくように感じられた。僕は目を閉じc長い時間をかけて気持ちをひとつにまとめた。そして深呼吸をしてからそのつづきを読んだ。
「ここに来てもう四ヶ月近くになります」と直子はつづけていた。
「私はその四ヶ月のあいだあなたのことをずいぶん考えていました。そして考えれば考えるほどc私は自分があなたに対して公正ではなかったのではないかと考えるようになってきました。私はあなたに対してcもっときちんとした人間として公正に振舞うべきではなかったのかと思うのです。
でもこういう考え方ってあまりまともじゃないかもしれませんね。どうしてかというと私くらいの年の女の子は公正なんていう言葉はまず使わないからです。普通の若い女の子にとってはc物事が公正かどうかなんていうのは根本的にどうでもいいことだからです。ごく普通の女の子は何かが公正かどうかよりは何が美しいかとかどうすれば自分が幸せになれるかとかcそういうことを中心に物事を考えるものです。公正なんていうのはどう考えても男の人の使う言葉ですね。でも今の私にはこの公正という言葉はとてもぴったりしているように感じられるのです。たぶん何が美しいかとかどうすれば幸せになるかとかいうのは私にとってはとても面倒でいりくんだ命題なのでcつい他の基準にすがりついてしまうわけです。たとえば公正であるかとかc正直であるかとかc普遍的であるかとかね。
しかし何はともあれc私は自分があなたに対して公正ではなかったと思います。そしてそれでずいぶんあなたを引きずりまわしたりc傷つけたりしたんだろうと思います。でもそのことでc私だって自分自身を引きずりまわしてc自分自身を傷つけてきたのです。言いわけするわけでもないしc自己弁護するわけでもないけれどc本当にそうなのです。もし私があなたの中に何かの傷を残したとしたらcそれはあなただけの傷ではなくてc私の傷でもあるのです。たからそのことで私を憎んだりしないで下さい。私は不完全な人間です。私はあなたが考えているよりずっと不完全な人間です。だからこと私はあなたに憎まれたくないのです。あなたに憎まれたりすると私は本当にバラバラになってしまします。私はなたのように自分の殻の中にすっと入って何かをやりすごすということができないのです。あなたは本当はどうなのか知らないけれどc私にはなんとなくそう見えちゃうことがあるのです。だから時々あなたのことがすごくうらやましくなるしcあなたを必要以上に引きずりまわることになったのもあるいはそのせいかもしれません。
こういう物の見方ってあるいは分析的にすぎるのかもしれませんね。そう思いませんかここの治療は決して分析的にすぎるという物ではありません。でも私のような立場に置かれて何ヶ月も治療を受けているとcいやでも多かれ少なかれ分析的になってしまうものなのです。何かがこうなったのはこういうせいだcそしてそれはこれを意味しcそれ故にこうなのだcとかね。こういう分析が世界を単純化しようとしているのか細分化しようとしているのか私にはよくわかりません。
しかし何はともあれc私は一時に比べるとずいぶん回復したように自分でも感じますしcまわりの人々もそれを認めてくれます。こんあ風に落ち着いて手紙を書けるのも久しぶりのことです。七月にあなたに出した手紙は身をしぼるような思いで書いたのですが正直言ってc何を書いたのか全然思い出せません。ひどい手紙じゃなかったかしらc今回はすごく落ち着いて書いています。きれいな空気c外界から遮断された静かな世界c規則正しい生活c毎日の運動cそういうものがやはり私には必要だったようでう。誰かに手紙を書けるというのがいいものですね。誰かに自分の思いを伝えたいと思いc机の前に座ってペンをとりcこうして文章が書けるということは本当に素敵です。もちろん文章にしてみると自分の言いたいことのほんの一部しか表現できないのだけれどcでもそれでもかまいません。誰かに何かを書いてみたいという気持ちになれるだけで今の私には幸せなのです。そんなわけでc私は今あなたに手紙を書いています。今は夜の七時半でc夕食を済ませcお風呂にも入り終ったところです。あたりはしんとしてc窓の外は真っ暗です。光ひとつ見えません。いつもは星がとてもきれいに見えるのですが今日は曇っていて駄目です。ここにいる人たちはみんなとても星にくわしくてcあれが乙女座だとか射手座だとか私に教えてくれます。たぶん日が暮れると何もすることがなくなるので嫌でもくわしくなっちゃうんでしょうね。そしてそれはと同じような理由でcここの人々は鳥や花や虫のこともとてもよく知っています。そういう人たちと話しているとc私は自分がいろんなことについていかに無知であったかということを思い知らされますしcそんな風に感じるのはなかなか気持ちの良いものです。
ここには全部で七十人くらいの人が入って生活しています。その他にスタッフお医者c看護婦c事務cその他いろいろが二十人ちょっといます。とても広いところですからcこれは決して多い数字ではありません。それどころか閑散としていると表現した方が近いかもしれませんね。広々としてc自然に充ちていてc人々はみんな穏やかに暮らしています。あまりにも穏やかなのでときどきここが本当のまともな世界なんじゃないかという気がするくらいです。でもcもちろんそうではありません。私たちはある種の前提のもとにここで暮らしているからcこういう風にもなれるのです。
私はテニスとバスケットボールをやっています。バスケットボールのチームは患者というのは嫌な言葉ですが仕方ありませんねとスタッフが入りまじって構成されています。でもゲームに熱中しているうちに私には誰が患者で誰がスタッフなのかだんだんわからなくなってきます。これはなんだか変なものです。変な話だけれどcゲームをしながらまわりを見ていると誰も彼も同じくらい歪んでいるように見えちゃうのです。
ある日私の担当医にそのことを言うとc君の感じていることはある意味で正しいのだと言われました。彼は私たちがここにいるのはその歪みを矯正するためではなくcその歪みに馴れるためなのだといいます。私たちの問題点のひとつはその歪みを認めて受けれることができないというところにあるのだcと。人間一人ひとりが歩き方に癖があるようにc感じ方や考え方や物の見方にも癖があるしcそれはなおそうと思っても急になおるものではないしc無理になおそうとすると他のところがおかしくなってしまうことになるんだそうです。もちろんこれはすごく単純化した説明だしcそういうのは私たちの抱えている問題のあるひとつの部分にすぎないわけですがcそれでも彼の言わんとすることは私にもなんとなくわかります。私たちはたしかに自分の歪みに上手く順応しきれないでいるのかもしれません。だからその歪みが引き起こす現実的な痛みや苦しみを上手く自分の中に位置づけることができなくてcそしてそういうものから遠離るためにここに入っているわけです。ここにいる限り私たちは他人を苦しめなくてすむしc他人から苦しめられなくてすみます。何故なら私たちはみんな自分たちが歪んでいることを知っているからです。そこが外部世界とはまったく違っているところです。外の世界では多くの人は自分の歪みを意識せずに暮らしています。でも私たちのこの小さな世界では歪みこそが前提条件なのです。私たちはインディアンが頭にその部族をあらわす羽根をつけるようにc歪みを身につけています。そして傷つけあうことのないようにそっと暮らしているのです。
運動をする他にはc私たちは野菜を作っています。トマトcなすcキウリc西瓜c苺cねぎcキャベツc大根cその他いろいろ。大抵のものは作ります。温室も使っています。ここの人たちは野菜づくりにはとてもくわしいしc熱心です。本を読んだりc専門家を招いたりc朝から晩までどんな肥料がいいだとか地質がどうのとかcそんな話ばかりしています。私も野菜づくりは大好きになりました。いろんな果物や野菜が毎日少しずつ大きくなっていく様子を見るのはとても素敵です。あなたは西瓜を育てたことがありますか西瓜ってcまるで小さな動物みたいな膨らみ方をするんですね。
私たちは毎日そんな採れたての野菜や果物を食べて暮らしています。肉や魚ももちろん出ますけれどcここにいるとそういうを食べたいという気持ちはだんだん少なくなってきます。野菜がとにかく瑞々しくておいしいからです。外に出て山菜やきのこの採取をすることもあります。そういうのにも専門家がいて考えてみれば専門家だらけですねcここはcこれはいいcこれは駄目と教えてくれます。おかげで私はここにきてから三キロも太ってしまいました。ちょうどいい体重というところですね。運動と規則正しいきちんとした食事のせいです。
その他の時間c私たちは本を読んだりcレコードを聴いたりc編みものをしたりしています。tvとかラジオとかはありませんがcその代わりけっこうしっかりした図書館もありますしcレコードライブラリイもあります。レコードライブラリイにはマーラーのシンフォニーの全集からビートルズまで揃っていてc私はいつもここでレコードを借りてc部屋で聴いています。
この施設の問題は一度ここに入ると外に出るのが億劫になるcあるいは怖くなるということですね。私たちはここの中にいる限り平和で穏やかな気持ちになります。自分たちの歪みに対しても自然な気持ちで対することができます。自分たちが回復したと感じます。しかし外の世界が果たして私たちを同じように受容してくれるものかどうかc私には確信が持てないのです。
担当医は私がそろそろ外部の人と接触を持ち始める時期だと言います。外部の人というのはつまり正常な世界の正常な人ということですがcそれいわれてもc私にはあなたの顔しか思い浮ばないのです。正直に言ってc私には両親にはあまり会いたくありません。あの人たちは私のことですごく混乱していてc会って話をしても私はなんだか惨めな気分になるばかりだからです。それに私にはあなたに説明しなくてはならないことがいくつがあるのです。うまく説明できるかどうかはわかりませんがcそれはとても大事なことだしc避けて通ることはできない種類のことなのです。
でもこんなことを言ったからといってc私のことを重荷としては感じないで下さい。私は誰かの重荷にだけはなりたくないのです。私は私に対するあなたの好意を感じるしcそれを嬉しく思うしcその気持ちを正直にあなたに伝えているだけです。たぶん今の私はそういう好意をとても必要としているのです。もしあなたにとってc私の書いたことの何かが迷惑に感じられたとしたら謝ります。許して下さい。前にも書いたようにc私はあなたが思っているより不完全な人間なのです。
ときどきこんな風に思います。もし私とあなたがごく当り前の普通の状況で出会ってcお互いに好意を抱き合っていたとしたらcいったいどうなっていたんだろうと。私がまともでcあなたもまともで始めからまともですねcキズキ君がいなかったとしたらどうなっていただろうcと。でもこのもしはあまりにも大きすぎます。少なくとも私は公正に正直になろうと努力しています。今の私にはそうすることしかできません。そうすることによって私の気持ちを少しでもあなたに伝えたいと思うのです。
この施設は普通の病院とは違ってc面会は原則的に自由です。前日までに電話連絡すればcいつでも会うことができます。食事も一緒にできますしc宿泊の設備もあります。あなたの都合の良いときに一度会いに来て下さい。会えることを楽しみにしています。地図を同封しておきます。長い手紙になってしまってごめんなさい」
僕は最後まで読んでしまうとまた始めから読み返した。そして下に降りて自動販売機でコーラを買ってきてcそれを飲みながらまたもう一度読み返した。そしてその七枚の便箋を封筒に戻しc机の上に置いた。ピンク色の封筒には女の子にしては少しきちんとしすぎているくらいのきちんとした小さな字で僕の名前と住所が書いてあった。僕は机の前に座ってしばらくその封筒を眺めていた。封筒の裏の住所には「阿美寮」と書いてあった。奇妙な名前だった。僕はその名前について五c六分間考えをめぐらせてからcこれはたぶんフランス語のa友だちからとったものだろうと想像した。
手紙を机の引き出しにしまってからc僕は服を着替えて外に出た。その手紙の近くにいると十回も二十回も読み返してしまいそうな気がしたからだ。僕は以前直子と二人でいつもそうしていたようにc日曜日の東京の町をあてもなく一人でぶらぶらと歩いた。彼女の手紙の一行一行を思い出しcそれについて僕なりに思いをめぐらしながらc僕は町の通りから通りへとさまよった。そして日が暮れてから寮に戻りc直子のいる「阿美寮」に長距離電話をかけてみた。受付の女性が出てc僕の用件を聞いた。僕は直子の名前を言いcできることなら明日の昼過ぎに面会に行きたいのだが可能だろうかと訊ねてみた。彼女は僕の名前を聞きc三十分あとでもう一度電話をかけてほしいと言った。
僕は食事のあとで電話をすると同じ女性が出て面会は可能ですのでどうぞお越し下さいと言った。僕は礼を言って電話を切りcナップザックに着替えと洗面用具をつめた。そして眠くなるまでブランディを飲みながら魔の山のつづきを読んだ。それでもやっと眠ることができたのは午前一時を過ぎてからだった。
六
月曜日の朝の七時に目を覚ますと僕は急いで顔を洗って髭を剃りc朝食は食べずにすぐに寮長の部屋に行きc二日ほど山登りしてきますのでよろしくと言った。僕はそれまでにも暇になると何度も小旅行をしていたからc寮長もああと言っただけだった。僕は混んだ通勤電車に乗って東京駅に行きc京都までの新幹線自由席の切符を買いcいちばん早い「ひかり」に文字どおりとび乗りc熱いコーヒーとサンドイッチを朝食がわりに食べた。そして一時間ほどうとうとと眠った。
京都駅についたのは十一時少し前だった。僕は直子の指示に従っ
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