正文 第17节
消して席を立ちcカウンターのコーヒーウォーマーからふたつのカップにコーヒーを注いで運んできてくれた。彼女は砂糖を入れてスプーンでかきまわしc顔をしかめてそれを飲んだ。
「この療養所はねc営利企業じゃないのよ。だからまだそれほど高くない入院費でやっていけるの。この土地もある人が全部寄附したのよ。法人を作ってね。昔はこのへん一帯はその人の別荘だったの。二十年くらい前までは。古い屋敷みたでしょう」
見たcと僕は言った。
「昔は建物もあそこしかなくてcあそこに患者をあつめてグループ療養してたの。つまりどしてそういうこと始めたかというとねcその人の息子さんがやはり精神病の傾向があってcある専門医がその人にグループ療養を勧めたわけ。人里はなれたところでみんな助け合いながら労働をして暮らしcそこに医者が加わってアドバイスしc状況をチェックすることによってある種の病いを治癒することが可能だというのがその医師の理論だったの。そういう風にしてここは始まったのよ。それがだんだん大きくなってc法人になってc農場も広くなってc本館も五年前にできて」
「治療の効果はあったわけですね」
「ええcもちろん万病に効くってわけでもないしcよくならない人も沢山いるわよ。でも他では駄目だった人がずいぶんたくさんここでよくなって回復して出て行ったのよ。ここのいちばん良いところはねcなんなが助け合うことなの。みんな自分が不完全だということを知っているからcお互いに助け合おうとするの。他のところはそうじゃないのよc残念ながら。他のところでは医者はあくまで医者でc患者はあくまで患者なの。患者は医者に助けを請いc医者は患者を助けてあげるの。でもここでは私たちは助け合うのよ。私たちはお互いの鏡なの。そしてお医者は私たちの仲間なの。そばで私たちを見ていて何かが必要だなと思うと彼らはさっとやってきて私たちを助けてくれるけれどc私たちもある場合には彼らを助けるの。というのはある場合には私たちの方が彼らより優れているからよ。たとえば私はあるお医者にピアノを教えてるし人の患者は看護婦にフランス語を教えるしcまあそういうことよね。私たちのような病気にかかっている人には専門的な才能に恵まれた人がけっこう多いのよ。だからここでは私たちはみんな平等なの。私はあなたを助けるしcあなたも私を助けるの」
「僕はどうすればいいんですかc具体的に」
「まず第一は相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないのだと思うこと。第二に正直になること。嘘をついたりc物事を取り繕ったりc都合の悪いことを誤魔化したりしないこと。それだけでいいのよ」
「努力します」と僕はいた。「でもレイコさんはどうして七年もここにいるんですか。僕はずっと話していてあなたに何か変ってところがあるとは思えないですが」
「昼間はね」と彼女は暗い顔をして言った。「でも夜になると駄目なの。夜になると私cよだれ垂らして床中転げまわるの」
「本当に」と僕は訊いた。
「嘘よ。そんなことするわけないでしょう」と彼女はあきれたように首を振りながら言った。「私は回復してるわよ。今のところは。野菜作ったりしてね。私ここ好きだもの。みんな友だちみたいなものだし。それに比べて外の世界に何があるの私は三十八でもうすぐ四十よ。直子とは違うのよ。私がここを出てったって待っててくれる人もいないしc受け入れてくれる家庭もないしcたいした仕事もないしc殆んど友だちもいないし。それに私ここにもう七年も入ってるのよ。世の中のことなんてもう何もわかんないわよ。そりゃ時々図書館で新聞は読んでるわよ。でも私cこの七年間このへんから一歩も外に出たことないのよ。今更出ていったってcどうしていいかなんてわかんないわよ」
「でも新しい世界が広がるかもしれませんよ」と僕は言った。「ためしてみる価値はあるでしょう」
「そうねcそうかもしれないわね」と言って彼女は手の中でしばらくライターをくるくるとまわしていた。「でもねcワタナベ君c私にも私のそれなりの事情があるのよ。よかったら今度ゆっくり話してあげるけど」
僕は肯いた。
「それで直子はよくなっているんですか」
「そうねc私たちはそう考えてるわ。最初のうちはかなり混乱していたしc私たちもどうなるのかなとちょっと心配していたんだけれどc今は落ち着いているしcしゃべり方もずいぶんましになってきたしc自分の言いたいことも表現できるようになってきたしまあ良い方に向っていることはたしかね。でもねcあの子はもっと早く治療を受けるべきだったのよ。彼女の場合cそのキズキ君っていうボーイフレンドが死んだ時点から既に症状が出始めていたのよ。そしてそのことは家族もわかっていたはずだし彼女自身にもわかっていたはずなのよ。家庭的な背景もあるし」
「家庭的な背景」と僕は驚いて訊きかえした。
「あらcあなたそれ知らなかったんだっけ」とレイコさんが余計に驚いて言った。
僕は黙って首を振った。
「じゃあそれは直子から直接聞きなさい。その方が良いから。あの子もあなたにはいろんなこと正直に話そうという気になってるし」レイコさんはまたスプーンでコーヒーをかきまわしcひとくち飲んだ。「それからこれは規則で決ってることだから最初に言っておいた方が良いと思うんだけれどcあなたと直子が二人っきりになることは禁じられているの。これはルールなの。部外者が面会の相手と二人っきりになることはできないの。だから常にそこにはブザーバーが――現実的には私になるわけだけど――つきそってなきゃいけないわけ。気の毒だと思うけれど我慢してもらうしかないわね。いいかしら」
「いいですよ」と僕は笑って言った。
「でも遠慮しないで二人で何話してもいいわよc私がとなりにいることは気にしないで。私はあなたと直子のあいだのことはだいたい全部知ってるもの」
「全部」
「だいたい全部よ」と彼女は言った。「だって私たちグループセッションやるのよ。だから私たち大抵のこと知ってるわよ。それに私と直子は二人で何もかも話しあってるもの。ここにはそんな沢山秘密ってないのよ」
僕はコーヒーを飲みながらレイコさんの顔を見た。「東京にいるとき僕は直子に対してやったことが本当に正しかったことなのかどうか。それについてずっと考えてきたんだけれどc今でもまだわからないんです」
「それは私にもわからないわよ」とレイコさんは言った。「直子にもわからないしね。それはあなたたち二人がよく話しあってこれから決めることなのよ。そうでしょうたとえ何が起ったにせよcそれを良い方向に進めていくことはできるわよ。お互いを理解しあえればね。その出来事が正しかったかどうかというのはそのあとでまた考えればいいことなんじゃないかしら」
僕は肯いた。
「私たちは三人で助けあえるじゃないかと思うの。あなたと直子と私とで。お互いに正直になってcお互いを助けたいとさえ思えばね。三人でそういうのやるのってc時によってはすごく効果があるのよ。あなたはいつまでここにいられるの」
「明後日の夕方までに東京に戻りたいです。アルバイトに行かなくちゃいけないしc木曜日にはドイツ語のテストがあるから」
「いいわよcじゃ私たちの部屋に泊まりなさいよ。そうすればお金もかからないしc時間を気にしないでゆっくり話もできるし」
「私たちって誰のことですか」
「私と直子の部屋よcもちろん」とレイコさんは言った。「部屋も分かれているしcソファーベッドがひとつあるからちゃんと寝られるわよc心配しなくても」
「でもそういうのってかまわないんですかつまり男の訪問客が女性の部屋に泊まるとか」
「だってまさかあなた夜中の一時に私たちの寝室に入ってきてかわりばんこにレイプしたりするわけじゃないでしょう」
「もちろんしませんよcそんなこと」
「だったら何も問題ないじゃない。私たちのところに泊ってゆっくりといろんな話をしましょう。その方がいいわよ。その方がお互い気心もよくわかるしc私のギターも聴かせてあげられるし。なかなか上手いのよ」
「でも本当に迷惑じゃないですか」
レイコさんは三本目のセブンスターを口にくわえc口の端をきゅっと曲げてから火をつけた。「私たちそのことについては二人でよく話しあったのよ。そして二人であなたを招待しているのよc個人的に。そういうのって礼儀正しく受けた方がいいじゃないかしら」
「もちろん喜んで」と僕は言った。
レイコさんは目の端のしわを深めてしばらく僕の顔を眺めた。「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ」と彼女は言った。「あのライ麦畑の男の子の真似してるわけじゃないわよね」
「まさか」と僕は言って笑った。
レイコさんも煙草をくわえたまま笑った。「でもあなたは素直な人よね。私cそれ見てればわかるわ。私はここに七年いていろんな人が行ったり来たりするの見てたからかわるのよ。うまく心を開ける人と開けない人の違いがね。あなたは開ける人よ。正確に言えばc開こうと思えば開ける人よね」
「開くとどうなるんですか」
レイコさんは煙草をくわえたまま楽しそうにテーブルの上で手を合わせた。「回復するのよ」と彼女は言った。煙草の灰がテーブルの上に落ちたが気にもしなかった。
我々は本部の建物を出て小さな丘を越えcプールとテニスコートとバスケットコートのそばを通り過ぎた。テニスコートでは男が二人でテニスの練習をしていた。やせた中年の男と太った若い男でc二人とも腕は悪くなかったがcそれは僕の目にはテニスとはまったく異なった別のゲームのように思えた。ゲームをしているというよりはボールの弾性に興味があってそれを研究しているところといった風に見えるのだ。彼らは妙に考えこみながら熱心にボールのやりとりをしていた。そしてどちらもぐっしょりと汗をかいていた。手前にいた若い男がレイコさんの姿を見るとゲームを中断してやってきてcにこにこ笑いながら二言三言言葉をかわした。テニスコートのわきでは大型の芝刈り機を持った男が無表情に芝を刈っていた。
先に進むと林がありc林の中には洋風のこぢんまりとした住宅が距離をとって十五か二十散らばって建っていた。大抵の家の前には門番が乗っていたのと同じ黄色い自転車が置いてあった。ここにはスタッフの家族が住んでるのよcとレイコさんが教えてくれた。
「町に出なくても必要なものは何でもここで揃うのよ」とレイコさんは歩きながら僕に説明した。「食料品はさっきも言ったように殆んど自給自足でしょ。養鶏場もあるから玉子も手に入るし。本もレコードも運動設備もあるしc小さなスーパーマーケットみたいなのもあるしc毎週理容師もかよってくるし。週末には映画だって上映するのよ。町に出るスタッフの人に特別な買い物は頼めるしc洋服なんかはカタログ注文できるシステムがあるしcまず不便はないわね」
「町に出ることはできないんですか」と僕は質問した。
「それは駄目よ。もちろんたとえば歯医者に行かなきゃならないとかcそういう特殊なことがあればそれは別だけれどc原則的にはそれは許可されていないの。ここを出て行くことは完全にその人の自由だけれど度出て行くともうここには戻れないの。橋を焼くのと同じよ。ニc三日町に出てまたここに戻ってということはできないの。だってそうでしょうそんなことしたらc出たり入ったりする人ばかりになっちゃうもの」
林を抜けると我々はなだらかな斜面に出た。斜面には奇妙な雰囲気のある木造の二階建て住宅が不規則に並んでいた。どこかどう奇妙なのかと言われてもうまく説明できないのだがc最初にまず感じるのはこれらの建物はどことなく奇妙だということだった。それは我々が非現実を心地よく描こうとした絵からしばしば感じ取る感情に似ていた。ウォルトディズニーがムンクの絵をもとに漫画映画を作ったらあるいはこんな風になるのかもしれないなと僕はふと思った。建物はどれもまったく同じかたちをしていてc同じ色に塗られていた。かたちはほぼ立方体に近くc左右が対称で入口が広くc窓がたくさんついていた。その建物のあいだをまるで自動車教習所のコースみたいにくねくねと曲った道が通っていた。どの建物の前にも草花が植えられcよく手入れされていた。人影はなくcどの窓もカーテンが引かれていた。
「ここはc地区と呼ばれているところでcここには女の人たちが住んでいるの。つまり私たちよね。こういう建物が十棟あって棟が四つに区切られて区切りに二人住むようになってるの。だから全部で八十人は住めるわけよね。今のところ三十二人しか住んでないけど」
「とても静かですね」と僕は言った。
「今の時間は誰もいないのよ」とレイコさんは言った。「私はとくべつ扱いだから今こうして自由にしてるけれどc普通の人はみんなそれぞれのカリキュラムに従って行動してるの。運動している人もいるしc庭の手入れしている人もいるしcグループ療法している人もいるしc外に出て山菜を集めている人たちもいるし。そういうのは自分で決めてカリキュラムを作るわけ。直子は今何してたっけ壁紙の貼り替えとかペンキの塗り替えとかそういうのやってるんじゃなかったかしらね。忘れちゃったけど。そういうのがだいたい五時くらいまでいくつかあるのよ」
彼女は7cという番号のある棟の中に入りcつきあたりの階段を上って右側のドアを開けた。ドアには鍵がかかっていなかった。レイコさんは僕に家の中を案内して見せてくれた。居間とベッドルームとキッチンとバスルームの四室から成ったシンプルで感じの良い住居でc余分な飾りつけもなくc場違いな家具もなくcそれでいて素っ気ないという感じはしなかった。とくに何かがどうというのではないのだがc部屋の中にいるとレイコさんを前にしている時と同じようにc体の力を抜いてくつろぐことができた。居間にはソファーがひとつとテーブルがありc揺り椅子があった。キッチンには食事用のテーブルがあった。どちらのテーブルの上にも大きな灰皿が置いてあった。ベッドルームにはベッドがふたつと机がふたつとクローゼットがあった。ベッドの枕元には小さなテーブルと読書灯がありc文庫本が伏せたまま置いてあった。キッチンには小型の電気のレンジと冷蔵庫がセットになったものが置いてあってc簡単な料理なら作れるようになっていた。
「お風呂はなくてシャワーだけだけどまあ立派なもんでしょう」とレイコさんは言った。「お風呂と洗濯設備は共同なの」
「十分すぎるくらい立派ですよ。僕の住んでる寮なんて天井と窓しかないもの」
「あなたはここの冬を知らないからそういうのよ」とレイコさんは僕の背中を叩いてソファーに座らせc自分もそのとなりに座った。「長くて辛い冬なのよcここの冬は。どこを見まわしても雪c雪c雪でねcじっとりと湿って体の芯まで冷えちゃうの。私たち冬になると毎日毎日雪かきして暮すのよ。そういう季節にはねc私たち部屋を暖かくして音楽聴いたりお話したり編みものしたりして過すわけ。だからこれくらいのスペースがないと息がつまってうまくやっていけないのよ。あなたも冬にここにくればそれよくわかるわよ」
レイコさんは長い冬のことを思い出すかのように深いため息をつきc膝の上で手を合わせた。「これを倒してベッド作ってあげるわよ」と彼女は二人の座っているソファーをぽん
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「この療養所はねc営利企業じゃないのよ。だからまだそれほど高くない入院費でやっていけるの。この土地もある人が全部寄附したのよ。法人を作ってね。昔はこのへん一帯はその人の別荘だったの。二十年くらい前までは。古い屋敷みたでしょう」
見たcと僕は言った。
「昔は建物もあそこしかなくてcあそこに患者をあつめてグループ療養してたの。つまりどしてそういうこと始めたかというとねcその人の息子さんがやはり精神病の傾向があってcある専門医がその人にグループ療養を勧めたわけ。人里はなれたところでみんな助け合いながら労働をして暮らしcそこに医者が加わってアドバイスしc状況をチェックすることによってある種の病いを治癒することが可能だというのがその医師の理論だったの。そういう風にしてここは始まったのよ。それがだんだん大きくなってc法人になってc農場も広くなってc本館も五年前にできて」
「治療の効果はあったわけですね」
「ええcもちろん万病に効くってわけでもないしcよくならない人も沢山いるわよ。でも他では駄目だった人がずいぶんたくさんここでよくなって回復して出て行ったのよ。ここのいちばん良いところはねcなんなが助け合うことなの。みんな自分が不完全だということを知っているからcお互いに助け合おうとするの。他のところはそうじゃないのよc残念ながら。他のところでは医者はあくまで医者でc患者はあくまで患者なの。患者は医者に助けを請いc医者は患者を助けてあげるの。でもここでは私たちは助け合うのよ。私たちはお互いの鏡なの。そしてお医者は私たちの仲間なの。そばで私たちを見ていて何かが必要だなと思うと彼らはさっとやってきて私たちを助けてくれるけれどc私たちもある場合には彼らを助けるの。というのはある場合には私たちの方が彼らより優れているからよ。たとえば私はあるお医者にピアノを教えてるし人の患者は看護婦にフランス語を教えるしcまあそういうことよね。私たちのような病気にかかっている人には専門的な才能に恵まれた人がけっこう多いのよ。だからここでは私たちはみんな平等なの。私はあなたを助けるしcあなたも私を助けるの」
「僕はどうすればいいんですかc具体的に」
「まず第一は相手を助けたいと思うこと。そして自分も誰かに助けてもらわなくてはならないのだと思うこと。第二に正直になること。嘘をついたりc物事を取り繕ったりc都合の悪いことを誤魔化したりしないこと。それだけでいいのよ」
「努力します」と僕はいた。「でもレイコさんはどうして七年もここにいるんですか。僕はずっと話していてあなたに何か変ってところがあるとは思えないですが」
「昼間はね」と彼女は暗い顔をして言った。「でも夜になると駄目なの。夜になると私cよだれ垂らして床中転げまわるの」
「本当に」と僕は訊いた。
「嘘よ。そんなことするわけないでしょう」と彼女はあきれたように首を振りながら言った。「私は回復してるわよ。今のところは。野菜作ったりしてね。私ここ好きだもの。みんな友だちみたいなものだし。それに比べて外の世界に何があるの私は三十八でもうすぐ四十よ。直子とは違うのよ。私がここを出てったって待っててくれる人もいないしc受け入れてくれる家庭もないしcたいした仕事もないしc殆んど友だちもいないし。それに私ここにもう七年も入ってるのよ。世の中のことなんてもう何もわかんないわよ。そりゃ時々図書館で新聞は読んでるわよ。でも私cこの七年間このへんから一歩も外に出たことないのよ。今更出ていったってcどうしていいかなんてわかんないわよ」
「でも新しい世界が広がるかもしれませんよ」と僕は言った。「ためしてみる価値はあるでしょう」
「そうねcそうかもしれないわね」と言って彼女は手の中でしばらくライターをくるくるとまわしていた。「でもねcワタナベ君c私にも私のそれなりの事情があるのよ。よかったら今度ゆっくり話してあげるけど」
僕は肯いた。
「それで直子はよくなっているんですか」
「そうねc私たちはそう考えてるわ。最初のうちはかなり混乱していたしc私たちもどうなるのかなとちょっと心配していたんだけれどc今は落ち着いているしcしゃべり方もずいぶんましになってきたしc自分の言いたいことも表現できるようになってきたしまあ良い方に向っていることはたしかね。でもねcあの子はもっと早く治療を受けるべきだったのよ。彼女の場合cそのキズキ君っていうボーイフレンドが死んだ時点から既に症状が出始めていたのよ。そしてそのことは家族もわかっていたはずだし彼女自身にもわかっていたはずなのよ。家庭的な背景もあるし」
「家庭的な背景」と僕は驚いて訊きかえした。
「あらcあなたそれ知らなかったんだっけ」とレイコさんが余計に驚いて言った。
僕は黙って首を振った。
「じゃあそれは直子から直接聞きなさい。その方が良いから。あの子もあなたにはいろんなこと正直に話そうという気になってるし」レイコさんはまたスプーンでコーヒーをかきまわしcひとくち飲んだ。「それからこれは規則で決ってることだから最初に言っておいた方が良いと思うんだけれどcあなたと直子が二人っきりになることは禁じられているの。これはルールなの。部外者が面会の相手と二人っきりになることはできないの。だから常にそこにはブザーバーが――現実的には私になるわけだけど――つきそってなきゃいけないわけ。気の毒だと思うけれど我慢してもらうしかないわね。いいかしら」
「いいですよ」と僕は笑って言った。
「でも遠慮しないで二人で何話してもいいわよc私がとなりにいることは気にしないで。私はあなたと直子のあいだのことはだいたい全部知ってるもの」
「全部」
「だいたい全部よ」と彼女は言った。「だって私たちグループセッションやるのよ。だから私たち大抵のこと知ってるわよ。それに私と直子は二人で何もかも話しあってるもの。ここにはそんな沢山秘密ってないのよ」
僕はコーヒーを飲みながらレイコさんの顔を見た。「東京にいるとき僕は直子に対してやったことが本当に正しかったことなのかどうか。それについてずっと考えてきたんだけれどc今でもまだわからないんです」
「それは私にもわからないわよ」とレイコさんは言った。「直子にもわからないしね。それはあなたたち二人がよく話しあってこれから決めることなのよ。そうでしょうたとえ何が起ったにせよcそれを良い方向に進めていくことはできるわよ。お互いを理解しあえればね。その出来事が正しかったかどうかというのはそのあとでまた考えればいいことなんじゃないかしら」
僕は肯いた。
「私たちは三人で助けあえるじゃないかと思うの。あなたと直子と私とで。お互いに正直になってcお互いを助けたいとさえ思えばね。三人でそういうのやるのってc時によってはすごく効果があるのよ。あなたはいつまでここにいられるの」
「明後日の夕方までに東京に戻りたいです。アルバイトに行かなくちゃいけないしc木曜日にはドイツ語のテストがあるから」
「いいわよcじゃ私たちの部屋に泊まりなさいよ。そうすればお金もかからないしc時間を気にしないでゆっくり話もできるし」
「私たちって誰のことですか」
「私と直子の部屋よcもちろん」とレイコさんは言った。「部屋も分かれているしcソファーベッドがひとつあるからちゃんと寝られるわよc心配しなくても」
「でもそういうのってかまわないんですかつまり男の訪問客が女性の部屋に泊まるとか」
「だってまさかあなた夜中の一時に私たちの寝室に入ってきてかわりばんこにレイプしたりするわけじゃないでしょう」
「もちろんしませんよcそんなこと」
「だったら何も問題ないじゃない。私たちのところに泊ってゆっくりといろんな話をしましょう。その方がいいわよ。その方がお互い気心もよくわかるしc私のギターも聴かせてあげられるし。なかなか上手いのよ」
「でも本当に迷惑じゃないですか」
レイコさんは三本目のセブンスターを口にくわえc口の端をきゅっと曲げてから火をつけた。「私たちそのことについては二人でよく話しあったのよ。そして二人であなたを招待しているのよc個人的に。そういうのって礼儀正しく受けた方がいいじゃないかしら」
「もちろん喜んで」と僕は言った。
レイコさんは目の端のしわを深めてしばらく僕の顔を眺めた。「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ」と彼女は言った。「あのライ麦畑の男の子の真似してるわけじゃないわよね」
「まさか」と僕は言って笑った。
レイコさんも煙草をくわえたまま笑った。「でもあなたは素直な人よね。私cそれ見てればわかるわ。私はここに七年いていろんな人が行ったり来たりするの見てたからかわるのよ。うまく心を開ける人と開けない人の違いがね。あなたは開ける人よ。正確に言えばc開こうと思えば開ける人よね」
「開くとどうなるんですか」
レイコさんは煙草をくわえたまま楽しそうにテーブルの上で手を合わせた。「回復するのよ」と彼女は言った。煙草の灰がテーブルの上に落ちたが気にもしなかった。
我々は本部の建物を出て小さな丘を越えcプールとテニスコートとバスケットコートのそばを通り過ぎた。テニスコートでは男が二人でテニスの練習をしていた。やせた中年の男と太った若い男でc二人とも腕は悪くなかったがcそれは僕の目にはテニスとはまったく異なった別のゲームのように思えた。ゲームをしているというよりはボールの弾性に興味があってそれを研究しているところといった風に見えるのだ。彼らは妙に考えこみながら熱心にボールのやりとりをしていた。そしてどちらもぐっしょりと汗をかいていた。手前にいた若い男がレイコさんの姿を見るとゲームを中断してやってきてcにこにこ笑いながら二言三言言葉をかわした。テニスコートのわきでは大型の芝刈り機を持った男が無表情に芝を刈っていた。
先に進むと林がありc林の中には洋風のこぢんまりとした住宅が距離をとって十五か二十散らばって建っていた。大抵の家の前には門番が乗っていたのと同じ黄色い自転車が置いてあった。ここにはスタッフの家族が住んでるのよcとレイコさんが教えてくれた。
「町に出なくても必要なものは何でもここで揃うのよ」とレイコさんは歩きながら僕に説明した。「食料品はさっきも言ったように殆んど自給自足でしょ。養鶏場もあるから玉子も手に入るし。本もレコードも運動設備もあるしc小さなスーパーマーケットみたいなのもあるしc毎週理容師もかよってくるし。週末には映画だって上映するのよ。町に出るスタッフの人に特別な買い物は頼めるしc洋服なんかはカタログ注文できるシステムがあるしcまず不便はないわね」
「町に出ることはできないんですか」と僕は質問した。
「それは駄目よ。もちろんたとえば歯医者に行かなきゃならないとかcそういう特殊なことがあればそれは別だけれどc原則的にはそれは許可されていないの。ここを出て行くことは完全にその人の自由だけれど度出て行くともうここには戻れないの。橋を焼くのと同じよ。ニc三日町に出てまたここに戻ってということはできないの。だってそうでしょうそんなことしたらc出たり入ったりする人ばかりになっちゃうもの」
林を抜けると我々はなだらかな斜面に出た。斜面には奇妙な雰囲気のある木造の二階建て住宅が不規則に並んでいた。どこかどう奇妙なのかと言われてもうまく説明できないのだがc最初にまず感じるのはこれらの建物はどことなく奇妙だということだった。それは我々が非現実を心地よく描こうとした絵からしばしば感じ取る感情に似ていた。ウォルトディズニーがムンクの絵をもとに漫画映画を作ったらあるいはこんな風になるのかもしれないなと僕はふと思った。建物はどれもまったく同じかたちをしていてc同じ色に塗られていた。かたちはほぼ立方体に近くc左右が対称で入口が広くc窓がたくさんついていた。その建物のあいだをまるで自動車教習所のコースみたいにくねくねと曲った道が通っていた。どの建物の前にも草花が植えられcよく手入れされていた。人影はなくcどの窓もカーテンが引かれていた。
「ここはc地区と呼ばれているところでcここには女の人たちが住んでいるの。つまり私たちよね。こういう建物が十棟あって棟が四つに区切られて区切りに二人住むようになってるの。だから全部で八十人は住めるわけよね。今のところ三十二人しか住んでないけど」
「とても静かですね」と僕は言った。
「今の時間は誰もいないのよ」とレイコさんは言った。「私はとくべつ扱いだから今こうして自由にしてるけれどc普通の人はみんなそれぞれのカリキュラムに従って行動してるの。運動している人もいるしc庭の手入れしている人もいるしcグループ療法している人もいるしc外に出て山菜を集めている人たちもいるし。そういうのは自分で決めてカリキュラムを作るわけ。直子は今何してたっけ壁紙の貼り替えとかペンキの塗り替えとかそういうのやってるんじゃなかったかしらね。忘れちゃったけど。そういうのがだいたい五時くらいまでいくつかあるのよ」
彼女は7cという番号のある棟の中に入りcつきあたりの階段を上って右側のドアを開けた。ドアには鍵がかかっていなかった。レイコさんは僕に家の中を案内して見せてくれた。居間とベッドルームとキッチンとバスルームの四室から成ったシンプルで感じの良い住居でc余分な飾りつけもなくc場違いな家具もなくcそれでいて素っ気ないという感じはしなかった。とくに何かがどうというのではないのだがc部屋の中にいるとレイコさんを前にしている時と同じようにc体の力を抜いてくつろぐことができた。居間にはソファーがひとつとテーブルがありc揺り椅子があった。キッチンには食事用のテーブルがあった。どちらのテーブルの上にも大きな灰皿が置いてあった。ベッドルームにはベッドがふたつと机がふたつとクローゼットがあった。ベッドの枕元には小さなテーブルと読書灯がありc文庫本が伏せたまま置いてあった。キッチンには小型の電気のレンジと冷蔵庫がセットになったものが置いてあってc簡単な料理なら作れるようになっていた。
「お風呂はなくてシャワーだけだけどまあ立派なもんでしょう」とレイコさんは言った。「お風呂と洗濯設備は共同なの」
「十分すぎるくらい立派ですよ。僕の住んでる寮なんて天井と窓しかないもの」
「あなたはここの冬を知らないからそういうのよ」とレイコさんは僕の背中を叩いてソファーに座らせc自分もそのとなりに座った。「長くて辛い冬なのよcここの冬は。どこを見まわしても雪c雪c雪でねcじっとりと湿って体の芯まで冷えちゃうの。私たち冬になると毎日毎日雪かきして暮すのよ。そういう季節にはねc私たち部屋を暖かくして音楽聴いたりお話したり編みものしたりして過すわけ。だからこれくらいのスペースがないと息がつまってうまくやっていけないのよ。あなたも冬にここにくればそれよくわかるわよ」
レイコさんは長い冬のことを思い出すかのように深いため息をつきc膝の上で手を合わせた。「これを倒してベッド作ってあげるわよ」と彼女は二人の座っているソファーをぽん
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