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正文 第23节

  だす粒子の粗い影はまるで湖面をうつろう水紋のようにそのかたちを変えていた。

  これはなんという完全ななのだろう――と僕は思った。直子はいつの間にこんな完全なを持つようになったのだろうそしてその春の夜に僕が抱いた彼女のはいったいどこに行ってしまったのだろう

  その夜c泣きつづける直子の服をゆっくりとやさしく脱がせていったときc僕は彼女の体がどことなく不完全であるような印象を持ったものだった。は固くc乳首は場ちがいな突起のように感じられたしc腰のまわりに妙にこわばっていた。もちろん直子は美しい娘だったしcそのは魅力的だった。それは僕を性的に興奮させc巨大な力で僕を押し流していった。しかしそれでもc僕は彼女の裸の体を抱きc愛撫しcそこに唇をつけながらcというもののアンバランスについてcその不器用さについてふと奇妙な感慨を抱いたものだった。僕は直子を抱きながらc彼女に向ってこう説明したかった。僕は今君としている。僕は君の中に入っている。でもこれは本当になんでもないことなんだ。どちらでもいいことなんだ。だってこれは体のまじわりにすぎないんだ。我々はお互いの不完全な体を触れ合わせることでしか語ることのできないことを語り合っているだけなんだ。こうすることで僕はそれぞれの不完全さを頒ちあっているんだよcと。しかしもちろんそんなことを口に出してうまく説明できるわけはない。僕は黙ってしっかりと直子の体を抱きしめているだけだった。彼女の体を抱いているとc僕はその中に何かしらうまく馴染めないで残っているような異物のごつごつとした感触を感じることができたcそしてその感触は僕を愛しい気持にさせcおそろしいくらい固く勃起させた。

  しかし今僕の前にいる直子の体はそのときとはがらりと違っていた。直子のはいつかの変遷を経た末にcこうして今完全なとなって月の光の中に生れ落ちたのだcと僕は思った。まずふっくらとした少女の肉がキズキの死と前後してすっかりそぎおとされcそれから成熟という肉をつけ加えられたのだ。直子のはあまりにも美しく完成されていたのでc僕は性的な興奮すら感じなかった。僕はただ茫然としてその美しい腰のくびれやc丸くつややかなやc呼吸にあわせて静かに揺れるすらりとした腹やその下のやわらかな黒い陰毛のかげりを見つめているだけだった。

  彼女がその裸の体を僕の目の前に曝していたのはたぶん五分か六分くらいのものだったのではなかったかと思う。やがて彼女はガウンを再びまといc上から順番にボタンをはめていった。ボタンをはめてしまうと直子はすっと立ちあがりc静かに寝室のドアを開けてその中に消えた。

  僕はずいぶん長いあいだベッドの中でじっとしていたがc思いなおしてベッドから出てc床に落ちている時計を拾い上げc月の光の方に向けて見た。三時四十分だった。僕は台所で何杯か水を飲んでからまたベッドに横になったがc結局夜が明けて日の光が部屋の隅々にしみこんだ青白い月光のしみをすっかり溶かし去ってしまうまで眠りは訪れなかった。僕は眠ったか眠らないかのうちにレイコさんがやってきて僕の頬をぴしゃぴしゃと叩き「朝よc朝よ」とどなった。

  レイコさんが僕のベッドを片づけているあいだc直子が台所に立って朝食を作った。直子は僕に向ってにっこり笑って「おはよう」と言った。おはようcと僕も言った。ハミングしながら湯をわかしたりパンを切ったりしている直子の姿をとなりに立ってしばらく眺めていたがc昨夜僕の前で裸になったという気配はまるで感じられなかった。

  「ねえc目が赤いわよ。どうしたの」と直子がコーヒーを入れながら僕に言った。

  「夜中に目が覚めちゃってねcそれから上手く寝られなかったんだ」

  「私たちいびきかいてなかった」とレイコさんが訊いた。

  「かいてませんよ」と僕は言った。

  「よかった」と直子が言った。

  「彼c礼儀正しいだけなのよ」とレイコさんはあくびしながら言った。

  僕は最初のうち直子はレイコさんの手前何もなかったふりをしているのかcあるいは恥かしいがっているのかとも思ったがcレイコさんがしばらく部屋から姿を消したときにも彼女の素振りには全く変化がなかったしcその目はいつもと同じように澄みきっていた。

  「よく眠れた」と僕は直子訊ねた。

  「ええcぐっすり」と直子は何でもなさそうに答えた。彼女は何のかざりもないシンプルなヘアピンで髪をとめていた。

  僕はそのわりきれない気分はc朝食をとっているあいだもずっとつづいていた。僕はパンにバターを塗ったりcゆで玉子の殻をむいたりしながらc何かのしるしのようなものを求めてc向いに座った直子の顔をときどきちらちらと眺めていた。

  「ねえcワタナベ君cどうしてあなた今朝私の顔ばかり見てるの」と直子がおかしそうに訊いた。

  「彼c誰かに恋してるのよ」とレイコさんが言った。

  「あなた誰かに恋してるの」と直子は僕に訊いた。

  そうかもしれないと言って僕も笑った。そして二人の女がそのことで僕をさかなにした冗談を言い合っているのを見ながらcそれ以上昨夜の出来事について考えるのをあきらめてパンを食べcコーヒーを飲んだ。

  朝食が終ると二人はこれから鳥小屋に餌をやりに行くと言ったのでc僕もついていくことにした。二人は作業用のジーンズとシャツに着替えc白い長靴をはいた。鳥小屋はテニスコートの裏のちょっとした公園の中にあってcニワトリから鳩からc孔雀cオウムにいたる様々な鳥がそこに入っていた。まわりには花壇がありc植え込みがありcベンチがあった。やはり患者らしい二人の男が通路に落ちた葉をほうきで集めていた。どちらの男も四十から五十のあいだに見えた。レイコさんと直子はその二人のところに行って朝のあいさつをしcレイコさんはまた何か冗談を言って二人の男を笑わせた。花壇にはコスモスの花が咲きc植込みは念入りに刈り揃えられていた。レイコさんの姿を見るとc鳥たちはキイキイという声を上げながら檻の中をとびまわった。

  彼女たちは鳥小屋のとなりにある小さな納屋の中に入って餌の袋とゴムホースを出してきた。直子がホースを蛇口につなぎc水道の栓をひねった。そして鳥が外に出ないように注意しながら檻の中に入って汚物を洗いおとしcレイコさんがデッキブラシでごしごしと床をこすった。水しぶきが太陽の光に眩しく輝きc孔雀たちはそのはねをよけて檻の中をばたばたと走って逃げた。七面鳥は首を上げて気むずかしい老人のような目で僕を睨みつけcオウムは横木の上で不快そうに大きな音を立てて羽ばたきした。レイコさんはオウムに向って猫の鳴き真似をするとcオウムは隅の方に寄って肩をひそめていたがc少しすると「アリガトcキチガイcクソタレ」と叫んだ。

  「誰がああいうの教えたのよね」とため息をつきながら直子が言った。

  「私じゃないわよ。私そういう差別用語教えたりしないもの」とレイコさんは言った。そしてまた猫の鳴き真似をした。オウムは黙り込んだ。

  「このヒト度猫にひどい目にあわされたもんだからc猫が怖くって怖くってしようがないのよ」とレイコさんは笑って言った。

  掃除が終ると二人は掃除用具を置いてcそれからそれぞれの餌箱に餌を入れていった。七面鳥はぺちゃぺちゃと床にたまった水をはねかえしながらやってきて餌箱に顔をつっこみc直子がお尻を叩いても委細かまわず夢中で餌を貪り食べていた。

  「毎朝これをやっているの」と僕は直子に訊いた。

  「そうよc新入りの女の人はだいたいこれやるの。簡単だから。ウサギみたい」

  見たいcと僕は言った。鳥小屋の裏にウサギ小屋がありc十匹ほどのウサギがワラの中に寝ていた。彼女はほうきで糞をあつめc餌箱に餌を入れてからc子ウサギを抱きあげ頬ずりした。

  「可愛いでしょう」と直子は楽しそうに言った。そして僕にウサギを抱かせてくれた。そのあたたかい小さいなかたまりは僕の腕の中でじっと身をすくめc耳をぴくぴくと震わせていた。

  「大丈夫よ。この人怖くないわよ」と直子は言って指でウサギの頭を撫でc僕の顔を見てにっこりと笑った。何のかげりもない眩しいような笑顔だったのでc僕も思わず笑わないわけにはいかなかった。そして昨夜の直子はいったいなんだったんだろうと思った。あれは間違いなく本物の直子だったc夢なんかじゃない――彼女はたしかに僕の前で服を脱いで裸になったんだcと。

  レイコさんはプラウドメアリを口笛できれいに吹きながらごみを集めcビニールのゴミ袋に入れてそのくちを結んだ。僕は掃除用具と餌の袋を納屋に運ぶのを手伝った。

  「朝っていちばん好きよ」と直子は言った。「何もかも最初からまた新しく始まるみたいでね。だからお昼の時間が来ると哀しいの。夕方がいちばん嫌。毎日毎日そんな風に思って暮らしてるの」

  「そうしてcそう思ってるうちにあなたたちも私みたいに年をとるのよ。朝が来て夜が来てなんて思っているうちにね」と楽しそうにレイコさんは言った。「すぐよcそんなの」

  「でもレイコさんは楽しんで年とってるように見えるけれど」と直子が言った。

  「年をとるのが楽しいと思わないけどc今更もう一度若くなりたいとは思わないわね」とレイコさんは言った。

  「どうしてですか」と僕は訊いた。

  「面倒臭いからよ。決まってんじゃない」とレイコさんは答えた。そしてプラウドメアリを吹きつづけながらほうきを納屋に放りこみc戸を閉めた。

  部屋に戻ると彼女たちはゴム長靴を脱いで普通の運動靴にはきかえcこれから農場に行ってくると言った。あまる見ていて面白い仕事でもないしc他の人たちとの共同作業だからあなたはここに残って本でも読んでいた方がいいでしょうとレイコさんは言った。

  「それから洗面所に私たちの汚れた下着がバケツにいっぱいあるから洗っといてくれる」とレイコさんが言った。

  「冗談でしょう」と僕はびっくりして訊きかえした。

  「あたり前じゃない」とレイコさんは笑っていった。「冗談に決ってるでしょうcそんなこと。あなたってかわいいわねえ。そう思わないc直子」

  「そうねえ」と直子も笑って同意した。

  「ドイツ語やってますよ」と僕はため息をついて言った。

  「いい子ねcお昼前には戻ってくるからちゃんと勉強してるのよ」とレイコさんは言った。そして二人はクスクス笑いながら部屋を出で行った。何人かの人々が窓の下を通り過ぎていく足音や話し声が聞こえた。

  僕は洗面所に入ってもう一度顔を洗い。爪切りを借りて手の爪を切った。二人の女性が住んでいるにしてはひどくさっぱりとした洗面所だった。化粧クリームやリップクリームや日焼けどめやローションといったものがぱらぱらと並んでいるだけでc化粧品らしいものは殆んどなかった。爪を切ってしまうと僕は台所でコーヒーを入れcテーブルの前に座ってそれを飲みながらドイツ語の教科書を広げた。台所の日だまりの中でtシャツ一枚になってドイツ語の文法表を片端から暗記しているとc何だかふと不思議な気持になった。ドイツ語の不規則動詞とこの台所のテーブルはおよそ考えられる限りの遠い距離によって隔てられているような気がしたからだ。

  十一時半に農場から二人は帰ってきて順番にシャワーに入りcさっぱりした服に着がえた。そして三人で食堂に行って昼食をとりcそのあとで門まで歩いた。門衛小屋には今度はちゃんと門番がいてc食堂から運ばれてきたらしい昼食を机の前で美味しそうに食べていた。棚の上のトランジスタラジオからは歌謡曲が流れていた。僕らが歩いていくと彼はやあと手をあげてあいさつしc僕らも「こんにちは」と言った。

  これから三人で外を散歩してくるc三時間くらいで戻ってくると思うcとレイコさんが言った。

  「ええcどうぞcどうぞcええ天気ですもんな。谷沿いの道はこないだの雨で崩れとるんで危ないですがcそれ以外なら大丈夫c問題ないです」と門番は言った。レイコさんは外出者リストのような用紙に直子と自分の名前と外出日時を記入した。

  「気ィつけていってらしゃい」と門番は言った。

  「親切そうな人ですね」と僕は言った。

  「あの人ちょっとここおかしいのよ」とレイコさんは言って指の先で頭を押えた。

  いずれにせよ門番の言うとおり実に良い天気だった。空は抜けるように青くc細くかすれた雲がまるでペンキのためし塗りでもしたみたいに天頂にすうっと白くこびりついていた。我々はしばらく「阿美寮」の低い石塀に沿って歩きcそれから塀を離れてc道幅の狭い急な坂道を一列になって上った。先頭がレイコさんでcまん中が直子でc最後は僕だった。レイコさんはこのへんの山のことなら隅から隅まで知っているといったしっかりした歩調でその細い坂道を上って行った。我々は殆んど口をきかずにただひたすら歩を運んだ。直子はブルージーンズと白いシャツという格好でc上着を脱いで手に持っていた。僕は彼女のまっすぐな髪が肩口で左右に揺れる様を眺めながら歩いた。直子はときどきうしろを振り向きc僕と目を合うと微笑んだ。上り道は気が遠くなるくらい長くつづいたがcレイコさんの歩調はまったく崩れなかったしc直子もときどき汗を拭きながら遅れることなくそのあとをついて行った。僕は山のぼりなんてしばらくしていないせいで息が切れた。

  「いつもこういう山のぼりしてるの」と僕は直子に訊いてみた。

  「週に一回くらいかな」と直子は答えた。「きついでしょcけっこう」

  「いささか」と僕は言った。

  「三分の二はきたからもう少しよ。あなた男の子でしょうしっかりしなくちゃ」とレイコさんが言った。

  「運動不足なんですよ」

  「女の子と遊んでばかりいるからよ」と直子が一人ごとみたいに言った。

  僕は何か言いかえそうとしたがc息が切れて言葉がうまく出てこなかった。時折目の前を頭に羽根かざりにようなものをつけた赤い鳥が横ぎっていた。青い空を背景に飛ぶ彼らの姿はいかにも鮮やかだった。まわりの草原には白や青や黄色の無数の花が咲き乱れcいたるところに蜂の羽音が聞こえた。僕はまわりのそんな風景を眺めながらもう何も考えずにただ一歩一歩足を前に運んだ。

  それから十分ほどで坂道は終りc高原のようになった平坦な場所に出た。我々はそこで一服して汗を拭きc息と整えc水筒の水を飲んだ。レイコさんは何かの葉っぱをみつけてきてcそれで笛を作って吹いた。

  道はなだらかな下りになりc両側にはすすきの穂が高くおい茂っていた。十五分ばかり歩いたところで我々は集落を通り過ぎたがcそこには人の姿はなく十二軒か十三軒の家は全て廃屋と化していた。家のまわりには腰の高さほど草が茂りc壁にあいた穴には鳩の糞がまっ白に乾いてこびりついていた。ある家は柱だけを残してすっかり崩れ落ちていたがc中には雨戸を開ければ今すぐにでも住みつけそうなものもあった。我々は死に絶えて無言の家々にはさまれた道を抜けた。

  「ほんの七c八年前までcここには何人か人が住んでたのよ」とレイコさんが教えてくれた。「まわりもずっと畑でね。でももうみんな出て行っちゃったわ。生活が厳しすぎるのよ。冬は雪がつもって身動きつかなくなるしcそれほど土地が肥えているわけじゃないしね。町に出て働いた方がお金になるのよ」

  「もったいないですね。まだ十分使える家もあるのに」と僕は言った。

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