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正文 第28节

  よ。彼は私を癒そうと精いっぱい努力したしc私もなおろうと努力したわよ。彼のためにも子供のためにもね。そして私ももう癒されたんだと思ってたのね。結婚して六年c幸せだったわよ。彼は九九パーセントまで完璧にやってたのよ。でも一パーセントがcたったの一パーセントが狂っちゃったのよ。そしてボンッよ。それで私たちの築きあげてきたものは一瞬にして崩れさってしまってcまったくのゼロになってしまったのよ。あの女の子一人のせいでね」

  レイコさんは足もとで踏み消した煙草の吸殻をあつめてブリキの缶の中に入れた。

  「ひどい話よね。私たちあんなに苦労してcいろんなものをちょっとずつちょっとずつ積みあげていったのにね。崩れるときってc本当にあっという間なのよ。あっという間に崩れて何もかもなくなっちゃうのよ」

  レイコさんは立ち上がってズボンのポケットに両手をつっこんだ。「部屋に戻りましょう。もう遅いし」

  空はさっきよりもっと暗く雲に覆われc月もすっかり見えなくなってしまっていた。今では雨の匂いが僕にも感じられるようになっていた。そして手に持った袋の中の若々しい葡萄の匂いがそこにまじりあっていた。

  「だから私なかなかここを出られないのよ」とレイコさんは言った。「ここを出て行って外の世界とかかわりあうのが怖いのよ。いろんな人に会っていろんな思いをするのが怖いのよ」

  「気持はよくわかりますよ」と僕は言った。「でもあなたにはできると僕は思いますよc外に出てきちんとやっていくことが」

  レイコさんはにっこり笑ったがc何も言わなかった。

  *

  直子はソファーに座って本を読んでいた。脚を組みc指でこめかみを押えながら本を読んでいたがcそれはまるで頭に入ってくる言葉を指でさわってたしかめているみたいに見えた。もうぽつぽつと雨が降りはじめていてc電灯の光が細かい粉のように彼女の体のまわりにちらちらと漂っていた。レイコさんとずっと二人で話したあとで直子を見るとc彼女はなんて若いんだろうと僕はあらためて認識した。

  「遅くなってごめんね」とレイコさんが直子の頭を撫でた。

  「二人で楽しかった」と直子が顔を上げて言った。

  「もちろん」とレイコさんは答えた。

  「どんなことしてたのc二人で」と直子が僕に訊いた。

  「口では言えないようなこと」と僕は言った。

  直子はくすくす笑って本を置いた。そして我々は雨の音を聴きながら葡萄を食べた。

  「こんな風に雨が降ってるとまるで世界には私たち三人しかいないって気がするわね」と直子が言った。「ずっと雨が降ったらc私たち三人ずっとこうしてられるのに」

  「そしてあなたたち二人が抱き合っているあいだ私が気のきかない黒人奴隷みたいに長い柄のついた扇でバタバタとあおいだりcギターでbgけたりするでしょ嫌よcそんなの」とレイコさんは言った。

  「あらcときどき貸してあげるわよ」と直子が笑って言った。

  「まあcそれなら悪くないわね」とレイコさんは言った。「雨よ降れ」

  雨は降りつづけた。ときどき雷まで鳴った。葡萄を食べ終わるとレイコさんは例によって煙草に火をつけcベッドの下からギターを出して弾いた。デサフィナードとイバネマの娘を弾きcそれからバカラックの曲やレノン=マッカートニーの曲を弾いた。僕とレイコさんは二人でまたワインを飲みcワインがなくなると水筒に残っていたブランディーをわけあって飲んだ。そしてとても親密な気分でいろんな話をした。このままずっと雨が降りつづけばいいのにと僕も思った。

  「またいつか会いに来てくれるの」と直子が僕の顔を見て言った。

  「もちろん来るよ」と僕は言った。

  「手紙も書いてくれる」

  「毎週書くよ」

  「私にも少し書いてくれる」とレイコさんが言った。

  「いいですよ。書きますc喜んで」と僕は言った。

  十一時になるとレイコさんが僕のために昨夜と同じようにソファーを倒してベッドを作ってくれた。そして我々はおやすみのあいさつをして電灯を消しc眠りについた。僕はうまく眠れなかったのでナップザックの中から懐中電灯と魔の山を出してずっと読んでいた。十二時少し前に寝室のドアがそっと開いて直子がやってきて僕のとなりにもぐりこんだ。昨夜とちがって直子はいつもと同じ直子だった。目もぼんやりとしていなかったしc動作もきびきびしていた。彼女は僕の耳に口を寄せて「眠れないのよcなんだか」と小さな声で言った。僕も同じだと僕は言った。僕は本を置いて懐中電灯を消しc直子を抱き寄せて口づけした。闇と雨音がやわらかく僕らをくるんでいた。

  「レイコさんは」

  「大丈夫よcぐっすり眠りこんでるから。あの人寝ちゃうとまず起きないの」と直子が言った。

  「本当にまた会いに来てくれるの」

  「来るよ」

  「あなたに何もしてあげられなくても」

  僕は暗闇の中で肯いた。直子のの形がくっきりと胸に感じられた。僕は彼女の体をガウンの上から手のひらでなぞった。肩から背中へcそして腰へとc僕はゆっくりと何度も手を動かして彼女の体の線ややわらかさを頭の中に叩きこんだ。しばらくそんな風にやさしく抱き合ったあとでc直子は僕の額にそっと口づけしcするりとベッドから出て行った。直子の淡いブルーのガウンが闇の中でまるで魚のようにひらりと揺れるのが見えた。

  「さよなら」と直子が小さな声で言った。

  そして雨の音を聴きながらc僕は静かな眠りについた。

  雨は朝になってもまだ降りつづいていた。昨夜とはちがってc目に見えないくらいの細い秋雨だった。水たまりの水紋と軒をつたって落ちる雨だれの音で雨が降っていることがやっとわかるくらいだった。目をさましたとき窓の外には乳白色の霧がたれこめていたがc太陽が上るにつれて霧は風に流されc雑木林や山の稜線が少しずつ姿をあらわした。

  昨日の朝と同じように僕ら三人で朝食を食べcそれから鳥小屋の世話をしに行った。直子とレイコさんはフードのついたビニールの黄色い雨合羽を着ていた。僕はセーターの上に防水のウィインドブレーカーを着た。空気は湿っぽくてひやりとしていた。鳥たちも雨を避けるように小屋の奥の方にかたまってひっそりと身を寄せてあっていた。

  「寒いですねc雨が降ると」と僕はレイコさんに言った。

  「雨が降るごとに少しずつ寒くなってねcそれがいつか雪に変るのよ」と彼女は言った。「日本海からやってきた雲がこのへんにどっさりと雪を落として向うに抜けていくの」

  「鳥たちは冬はどうするんですか」

  「もちろん室内に移すわよ。だってあなたc春になったら凍りついた鳥を雪の下から掘り返して解凍して生き返らせてはいcみんなcごはんよなんていうわけにもいかないでしょう」

  僕が指で金網をつつくとオウムが羽根をばたばたさせてcクソタレアリガトキチガイcと叫んだ。

  「あれ冷凍しちゃいたいわね」と直子が憂鬱そうに言った。「毎朝あれ聞かされると本当に頭がおかしくなっちゃいそうだわ」

  鳥小屋の掃除が終るとわれわれは部屋に戻りc僕は荷物をまとめた。彼女たちは農場に行く仕度をした。我々は一緒に棟を出てcテニスコートの少し先で別れた。彼女たちは道の右に折れc僕はまっすぐに進んだ。さよならと彼女たちは言いcさよならと僕は言った。また会いに来るよcと僕は言った。直子は微笑んでcそれから角を曲って消えていった。

  門につくまでに何もの人とすれ違ったがc誰もみんな直子たちが着ていたのと同じ黄色い雨合羽を着てc頭にはすっぽりとフードをかぶっていた。雨のおかげてあらゆるものの色がくっきりとして見えた。地面は黒々としてc松の枝は鮮やかな緑色でc黄色の雨合羽に身を包んだ人々は雨の朝にだけ地表をさまようことを許された特殊な魂のように見えた。彼らは農具や籠や何かの袋を持ってc音もなくそっと地表を移動していた。

  門番は僕の名前を覚えていてc出て行くときは来訪者リストの僕の名前のところにしるしをつけた。

  「東京からおみえになったんですな」とその老人は僕の住所を見て言った。「私も一度だけあそこに行ったことありますがcあれは豚肉のうまいところですな」

  「そうですか」と僕はよくわからないまま適当に返事をした。

  「東京で食べた大抵のものはうまいとは思わんかったがc豚肉だけはうまかったですわ。あれはこうc何か特別な飼育法みたいなもんがあるんでしょな」

  それについて何も知らないと僕は言った。東京の豚肉がおいしいなんて話を聞いたのもはじめてだった。「それはいつの話ですか東京に行かれたというのは」と僕は訊いてみた。

  「いつでしたかなあ」と老人は首をひねった。「皇太子殿下の御成婚の頃でしたかな。息子が東京におって一回くらい来いというから行ったんですわ。そのときに」

  「じゃあそのころはきっと東京では豚肉がおいしかったんでしょうね」と僕は言った。

  「昨今はどうですか」

  よくわからないけれどcそういう評判はあまり耳にしたことはないと僕は答えた。僕がそう言うとc彼は少しがっかりしたみたいだった。老人はもっと話していたそうだったけれどcバスの時間があるからと言って僕は話を切り上げc道路に向って歩きはじめた。川沿いの道にはまだところどころに霧のきれはしが残りcそれは風に吹かれて山の斜面を彷徨していた。僕は道の途中で何度も立ちどまってうしろを振り向いたりc意味なくため息をついたりした。なんだかまるで少し重力の違う惑星にやってきたみたいな気がしたからだ。そしてそうだcこれは外の世界なんだと思って哀しい気持になった。

  寮に着いたのが四時半でc僕は部屋に荷物を置くとすぐに服を着がえてアルバイト先の新宿のレコード屋にでかけた。そして六時から十時半まで店番をしてレコードを売った。店の外を雑多な種類の人々が通りすぎていくのを僕はそのあいだぼんやりと眺めていた。家族づれやらカップルやら酔払いやらヤクザやらc短いスカートをはいた元気な女の子やらcヒッピー風の髭を生やした男やらcクラブのホステスやらcその他わけのわからない種類の人々やら次から次へと通りを歩いて行った。ハードロックをかけるとヒッピーやらフーテンが店の前に何人か集って踊ったりcシンナーを吸ったりcただ何をするともなく座りこんだりした。トニーベネットのレコードをかけると彼らはどこかに消えていった。

  店のとなりには大人のおもちゃ屋があってc眠そうな目をした中年男が妙な性具を売っていた。誰が何のためにそんなものほしがるのか僕には見当もつかないようなものばかりだったがcそれでも店はけっこう繁盛しているようだった。店の斜め向い側の路地では酒を飲みすぎた学生が反吐を吐いていた。筋向いのゲームセンターでは近所の料理店のコックが現金をかけたビンゴゲームをやって休憩時間をつぶしていた。どす黒い顔をした浮浪者が閉った店の軒下にじっと身動きひとつせずにうずくまっていた。淡いピンクの口紅を塗ったどうみても中学生としか見えない女の子が店に入ってきてローリングストーンズのジャンピンジャックフラッシェをかけてくれないかと言った。僕はレコードを持って来てかけてやるとc彼女は指を鳴らしてリズムをとりc腰を振って踊った。そして煙草はないかと僕に訊いた。僕は店長の置いていったラークを一本やった。女の子はうまそうにそれを吸いcレコードが終るとありがとうも言わずに出ていった。十五分おきに救急車だかパトカーだかのサイレンが聴こえた。みんな同じくらい酔払った三人連れのサラリーマンが公衆電話をかけている髪の長いきれいな女の子に向って何度もオマンコと叫んで笑いあっていた。

  そんな光景を見ているとc僕はだんだん頭が混乱しc何がなんだかわからなくなってきた。いったいこれは何なのだろうcと僕は思った。いったいこれらの光景はみんな何を意味しているのだろうcと。

  店長が食事から戻ってきてcおいcワタナベcおとといあそこのブティックの女と一発やったぜと僕に言った。彼は近所のブティックにつとめるその女の子に前から目をつけていてc店のレコードをときどき持ちだしてはプレゼントしていたのだ。そりゃ良かったですねcと僕が言うとc彼は一部始終をこと細かに話してくれた。女とやりたかったらだなcと彼は得意そうに教えてくれたcとにかくものをプレゼントしてcそのあとでとにかくどんどん酒を飲ませて酔払わせるんだよcどんどんcとにかく。そうすりゃあとはもうやるだけよ。簡単だろ

  僕は混乱した頭を抱えたまま電車に乗って寮に戻った。部屋のカーテンを閉めて電灯を消しcベッドに横になるとc今にも直子が隣りにもぐりこんでくるじゃないかという気がした。目を閉じるとそののやわらかなふくらみを胸に感じc囁き声を聞きc両手で体の線を感じとることができた。暗闇の中でc僕はもう一度直子のあの小さな世界へ戻って行った。僕は草原の匂いをかぎc夜の雨音を聴いた。あの月の光の下で見た裸の直子のことを思いcそのやわらかく美しいが黄色い雨合羽に包まれて鳥小屋の掃除をしたり野菜の世話をしたりしている光景を思い浮かべた。そして僕は勃起したベニスを握りc直子のことを考えながら射精した。射精してしまうと僕の頭の中の混乱も少し収まったようだったがcそれでもなかなか眠りは訪れなかった。ひどく疲れていて眠くて仕方がないのにcどうしても眠ることができないのだ。

  僕は起きあがって窓際に立ちc中庭の国旗掲揚台をしばらくぼおっと眺めていた。旗のついていない白いボールはまるで夜の闇につきささった巨大な白い骨のように見えた。直子は今頃どうしているだろうcと僕は思った。もちろん眠っているだろう。あの小さな不思議な世界の闇に包まれてぐっすり眠っているだろう。彼女が辛い夢を見ることがないように僕は祈った。

  七

  翌日の木曜日の午前中には体育の授業がありc僕は五十メートルプールを何度か往復した。激しい運動をしたせいで気分もいくらかさばっりしたしc食欲も出てきた。僕は定食屋でたっぷりと量のある昼食を食べてからc調べものをするために文学部の図書室に向かって歩いているところで小林緑とばったり出会った。彼女は眼鏡をかけた小柄の女の子と一緒にいたがc僕の姿を見ると一人で僕の方にやってきた。

  「どこに行くの」と彼女が僕に訊いた。

  「図書室」と僕は言った。

  「そんなところ行くのやめて私と一緒に昼ごはん食べない」

  「さっき食べたよ」

  「いいじゃない。もう一回食べなさいよ」

  結局僕と緑は近所の喫茶店に入ってc彼女はカレーを食べc僕はコーヒーを飲んだ。彼女は白い長袖のシャツの上に魚の絵の編み込みのある黄色い毛糸のチョッキを着てc金の細いネックレスをかけcディズニーワォッチをつけていた。そして実においしいそうにカレーを食べc水を三杯飲んだ。

  「ずっとここのところあなたいなったでっしょ私何度も電話したのよ」と緑は言った。

  「何か用事でもあったの」

  「別に用事なんかないわよ。ただ電話してみただけよ」

  「ふうむ

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