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正文 第29节

  」と僕は言った。

  「ふうむって何よいったいcそれ」

  「別に何でもないよcただのあいづちだよ」と僕は言った。「どうc最近火事は起きてない」

  「うんcあれなかなか楽しいかったわね。被害もそんなになかったしcそのわりに煙がいっばい出てリアリティーがあったしcああいうのいいわよ」緑はそう言ってからまたごくごくと水を飲んだ。そして一息ついてから僕の顔をまじまじと見た。「ねえcワタナベ君cどうしたのあなたなんだか漠然とした顔しているわよ。目の焦点もあっていないし」

  「旅行から帰ってきて少し疲れてるだよ。べつになんともない」

  「幽霊でも見てきたよな顔してるわよ」

  「ふうむ」と僕は言った。

  「ねえワタナベ君c午後の授業あるの」

  「ドイツ語と宗教学」

  「それすっぼかせない」

  「ドイツ語の方は無理だね。今日テストがある」

  「それ何時に終わる」

  「二時」

  「じゃあそのあと町に出て一緒にお酒飲まない」

  「昼の二時から」と僕は訊いた。

  「たまにはいいじゃない。あなたすごくボォッとした顔しているしc私と一緒にお酒でも飲んで元気だしなさいよ。私もあなたとお酒飲んで元気になりたいし。ねcいいでしょう」

  「いいよcじゃあ飲みに行こう」と僕はため息をついて言った。「二時に文学部の中庭で待っているよ」

  ドイツ語の授業が終わると我々はバスに乗って新宿の駅に出てc紀伊国屋の裏手の地下にあるdugに入ってワォッカトニックを二杯ずつ飲んだ。

  「ときどきここ来るのよc昼間にお酒飲んでもやましい感じしないから」と彼女は言った。

  「そんなにお昼から飲んでるの」

  「たまによ」と緑はグラスに残った氷をかちゃかちゃと音を立てて振った。「たまに世の中が辛くなるとcここに来てワォッカトニック飲むのよ」

  「世の中が辛いの」

  「たまにね」と緑は言った。「私には私でいろいろと問題があるのよ」

  「たとえばどんなこと」

  「家のことc恋人のことc生理不順のことーーいろいろよね」

  「もう一杯飲めば」

  「もちろんよ」

  僕は手をあげてウェイターを呼びcウォッカトニックを二杯注文した。

  「ねえcこのあいだの日曜日あなた私にキスしたでしょう」と緑は言った。「いろいろと考えてみたけどcあれよかったわよcすごく」

  「それはよかった」

  「それはよかった」とまた緑はくりかえした。「あなたって本当に変ったしゃべり方するわよねえ」

  「そうかなあ」と僕は言った。

  「それはまあともかくねc私思ったのよcあのとき。これが生まれて最初の男の子とのキスだったとしたら何て素敵なんだろって。もし私が人生の順番を組みかえることができたとしたらcあれをファーストキスにするわねc絶対。そして残りの人生をこんな風に考えて暮らすのよ。私が物干し台の上で生まれてはじめてキスをしたワタナベ君っていう男の子に今どうしてるだろう五十八歳になった今はcなんてね。どうc素敵だと思わない」

  「素敵だろうね」と僕はビスタチオの殻をむきながら言った。

  「たぶん世界にまだうまく馴染めていないだよ」と僕は少し考えてから言った。「ここがなんだか本当の世界にじゃないような気がするんだ。人々もまわりの風景もなんだ本当じゃないみたいに思える」

  緑はカウンターに片肘をついて僕の顔を見つめた。「ジムモリソンの歌にたしかそういうのあったわよね」

  「pe一plearestranranr」

  「ピース」と緑は言った。

  「ピース」と僕も言った。

  「私と一緒にウルグァイに行っちゃえば良いのよ」と緑はカンタンーに片肘をついたまま言った

  「恋人も家族も大学も何にもかも捨てて」

  「それも悪くないな」と僕は笑って言った。

  「何もかも放り出して誰も知っている人のいないところに行っちゃうのって素晴らしいと思わない私ときどきそうしたくなちゃうのよcすごく。だからもしあなたが私をひょいとどこか遠くに連れてってくれたとしたらc私あなたのために牛みたいに頑丈な赤ん坊いっばい産んであげるわよ。そしてみんなで楽しく暮らすの。床の上をころころと転げまわって」

  僕は笑って三杯めのウォッカトニックを飲み干した。

  「牛みたいに頑丈な赤ん坊はまだそれほど欲しくないのね」と緑は言った。

  「興味はすごくあるけれどね。どんなだか見てみたいしね」と僕は言った。

  「いいのよべつにc欲しくなくだって」緑はピスタチオを食べながら言った。「私だって昼下がりにお酒飲んであてのないこと考えてるだけなんだから。何もかも放り投げてどこかに行ってしまいたいって。それにウルグァイなんか行ったってどうせロバのウンコくらいしかないのよ」

  「まあそうかもしれないな」

  「どこもかしこもロバのウンコよ。ここにいったって。向うに行ったってc世界はロバのウンコよ。ねえcこの固いのあげる」緑は僕に固い殻のビスタチをくれた。僕は苦労してその殻をむいた。

  「でもこの前の日曜日ねc私すごくホッとしたのよ。あなたと二人で物干し場に上がって火事を眺めてcお酒飲んでc唄を唄って。あんなにホっとしたの本当に久しぶりだったわよ。だってみんな私にいろんなものを押しつけるだもの。顔をあわせればああだこうだってね。少くともあなたは私に何も押しつけないわよ」

  「何かを押しつけるほど君のことをまだよく知らないんだよ」

  「じゃあ私のことをもっとよく知ったらcあなたもやはり私にいろんなものを押しつけてくる他の人たちと同じように」

  「そうする可能性はあるだろうね」と僕は言った。「現実の世界では人はみんないろんなものを押しつけあって生きているから」

  「でもあなたはそういうことしないと思うな。なんとなくわかるのよcそういうのが。押しつけたり押しつけられたりすることに関しては私ちょっとした権威だから。あなたはそういうタイプではないしcだから私あなたと一緒にいると落ちつけるのよ。ねえ知ってる世の中にはいろんなもの押しつけたり押しつけられたりするのが好きな人ってけっこう沢山いるのよ。そして押しつけたc押しつけられたってわいわい騒いでるの。そういうのが好きなのよ。でも私はそんななの好きじゃないわ。やらなきゃ仕方ないからやってるのよ」

  「どんなものを押しつけたり押しつけられたりしているの君は」

  緑は氷を口に入れてしばらく舐めていた。

  「私のこともっと知りたい」

  「興味はあるねcいささか」

  「ねえc私は私のこともっと知りたいって質問したのよ。そんな答えっていくらなんでもひどいと思わない」

  「もっと知りたいよc君のことを」と僕は言った。

  「本当に」

  「本当に」

  「目をそむけたくなっても」

  「そんなにひどいの」

  「ある意味ではね」と緑は言って顔をしかめた。「もう一杯ほしい」

  僕はウェイターを呼んで四杯めを注文した。おかわりが来るまで緑はカウタンーに頬杖をついていた。僕は黙ってセロニアスモンクの弾く「ハニサックルローズ」を聴いていた。店の中には他に五c六の客がいたが酒を飲んでいるのは我々だけだった。コーヒーの香ばしい香りがうす暗い店内に午後の親密な空気をつくり出していた。

  「今度の日曜日cあなた暇」と緑が僕に訊いた。

  「この前も言ったと思うけれどc日曜日はいつも暇だよ。六時からのアルバイトを別にすればね」

  「じゃあ今度の日曜日c私につきあってくれる」

  「いいよ」

  「日曜日の朝にあなたの寮に迎えに行くわよ。時間ちょっとはっきりわからないけど。かまわない」

  「どうぞ。かまわないよ。」と僕は言った。

  「ねえcワタナベ君。私が今何にをしたがっているわかる」

  「さあねc想像もつかないね」

  「広いふかふかしたベットに横になりたいのcまず」と緑は言った。「すごく気持がよくて酔払っていてcまわりにはロバのウンコなんて全然なくてcとなりにはあなたが寝ている。そしてちょっとずつ私の服が脱がせる。すごくやさしく。お母さんが小さな子供の服を脱がせるときみたいにcそっと」

  「ふむ」と僕は言った。

  「私途中まで気持良いなあと思ってぼんやりとしてるの。でもねcほらcふと我に返ってだめよcワタナベ君って叫ぶの。私ワタナベ君のこと好きだけどc私には他につきあってる人人がいるしcそんなことできないの。私そういうのけっこう堅いのよ。だからやめてcお願いって言うの。でもあなたやめないの」

  「やめるよc僕は」

  「知ってるわよ。でもこれは幻想シーンなの。だからこれはこれでいいのよ」と緑は言った。「そして私にばっちり見せつけるのよcあれを。そそり立ったのを。私すぐ目を伏せるんだけどcそれでもちらっとみえちゃうのよね。そして言うのc駄目よc本当に駄目cそんなに大きくて固いのとても入らないわって」

  「そんなに大きくないよ。普通だよ」

  「いいのよcべつに。幻想なんだから。するとねcあなたはすごく哀しそうな顔をするの。そして私c可哀そうだから慰めてあげるの。よしよしc可哀そうにって」

  「それがつまり君が今やりたいことなの」

  「そうよ」

  「やれやれ」と僕は言った。

  全部で五杯ずつウォッカトニックを飲んでから我々は店を出た。僕が金を払うとすると緑は僕の手をぴしゃっと叩いて払いのけc財布からしわひとつない一万円札をだして勘定を払った。

  「いいのよcアルバイトのお金入ったしcそれに私が誘ったんだもの」と緑は言った。「もちろんあなたが筋金入りのファシストで女に酒なんかおごられたくないと思ってるんなら話はべつだけど」

  「いやcそうは思わないけど」

  「それに入れさせてもあげなかったし」

  「固くて大きいから」と僕は言った。

  「そう」と緑は言った。「固くて大きいから」

  緑は少し酔払っていて階段を一段踏み外してc我々はあやうく下まで転げおちそうになった。店の外に出ると空をうすく覆っていた雲が晴れてc夕暮に近い太陽が街にやさしく光を注いでいた。僕と緑はそんな街をしばらくぶらぶらと歩いた。緑は木のぼりがしたいといったがc新宿にはあいにくそんな木はなかったしc新宿御苑はもう閉まる時間だった。

  「残念だわc私木のぼり大好きなのに」と緑は言った。

  緑と二人でウィンドウジョッピングをしながら歩いているとcさっきまでに比べて街の光景はそれほど不自然には感じられなくなってきた。

  「君に会ったおかけで少しこの世界に馴染んだような気がするな」と僕は言った。

  緑は立ちどまってじっと僕の目をのぞきこんだ。「本当だ。目の焦点もずいぶんしっかりしてきたみたい。ねえc私とつきあってるとけっこ良いことあるでしょ」

  「たしかに」と僕は言った。

  五時半になると緑は食事の仕度があるのでそろそろ家に帰ると言った。僕はバスに乗って寮に戻ると言った。そして僕は彼女を新宿駅まで送りcそこで別れた。

  「ねえ今私が何やりたいかわかる」と別れ際に緑が僕に訪ねた。

  「見当もつかないよc君の考えることは」と僕は言った。

  「あなたと二人で海賊につかまって裸にされてc体を向いあわせにぴったりとかさねあわせたまま紐でぐるぐる巻きにされちゃうの」

  「なんでそんなことするの」

  「変質的な海賊なのよcそれ」

  「君の方がよほど変質的みたいだけどな」と僕は言った。

  「そして一時間後には海には放り込んでやるからcそれまでその格好でたっぷり楽しんでなっって船倉に置き去りにされるの」

  「それで」

  「私たち一時間たっぷり楽しむの。ころころ転がったりc体よじったりして」

  「それが君のいちばんやりたいことなの」

  「そう」

  「やれやれ」と僕は首を振った。

  日曜日の朝の九時半に緑は僕を迎えに来た。僕は目がさめたばかりでまだ顔も洗っていなかった。誰かが僕の部屋をどんどん叩いてcおいワタナベc女が来てるぞとどなったので玄関に下りてみると緑が信じられないくらい短いジーンズのスカートをはいてロビーの椅子に座って脚を組みcあくびをしていた。朝食を食べに行く連中がとおりがけにみんな彼女のすらりとのびた脚をじろじろと眺めていった。彼女の脚はたしかにとても綺麗だった。

  「早すぎたかしらc私」と緑は言った。「ワタナベ君c今起きたばかりみたいじゃない」

  「これから顔を洗って髭を剃ってくるから十五分くらい待ってくれる」と僕は言った。

  「待つのはいいけどcさっきからみんな私の脚をじろじろみてるわよ」

  「あたりまえじゃないか。男子寮にそんな短いスカートはいてくるだもの。見るにきまってるよcみんな」

  「でも大丈夫よ。今日のはすごく可愛い下着だから。ピンクので素敵なレース飾りがついてるの。ひらひらっと」

  「そういうのが余計にいけないんだよ」と僕はため息をついて言った。そして部屋に戻ってなるべく急いで顔を洗いc髭を剃った。そしてブルーのボタンダウンシャツの上にグレーのツイードの上着を着て下に降りc緑を寮の門の外に連れ出した。冷や汗が出た。

  「ねっcここにいる人たちがみんなマスターベーションしてるわけシコシコって」と緑は寮の建物を見上げながら言った。

  「たぶんね」

  「男の人って女の子のことを考えながらあれやるわけ」

  「まあそうだろね」と僕は言った。「株式相場とか動詞の活用とかスエズ運河のことを考えながらマスターベーションする男はまあいないだろうね。まあだいたいは女の子のこと考えてやるじゃないかな」

  「スエズ運河」

  「たとえばcだよ」

  「つまり特定の女の子のことを考えるのね」

  「あのねcそういうのは君の恋人に訊けばいいんじゃないの」と僕は言った。「どうして僕が日曜日の朝から君にいちいちそういうことを説明しなきゃな

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