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正文 第30节

  らないんだよ」

  「私ただ知りたいのよ」と緑は言った。「それに彼にこんなこと訊いたらすごく怒るのよ。女はそんなのいちいち訊くもんじゃないだって」

  「まあまともな考えだね」

  「でも知りたいのよc私。これは純粋な好奇心なのよ。ねえcマスターべーションするとき特定の女の子のこと考えるの」

  「考えるよ。少くとも僕はね。他人のことまではよくわからないけれど」と僕はあきらめて答えた。

  「ワタナベ君は私のこと考えてやったことある正直に答えてよc怒らないから」

  「やったことないよc正直な話」と僕は正直に答えた。

  「どうして私が魅力的じゃないから」

  「違うよ。君は魅力的だしc可愛いしc挑発的な格好がよく似合うよ」

  「じゃあどうして私のこと考えないの」

  「まず第一に僕は君のことを友だちだと思ってるからcそういうことにまきこみたくないんだよ。そういう性的な幻想にね。第二に――」

  「他に想い浮かべるべき人がいるから」

  「まあそういうことだよね」と僕は言った。

  「あなたってそういうことでも礼儀正しのね」と緑は言った。「私cあなたのそういうところ好きよ。でもね回くらいちょっと私を出演させてくれないその性的な幻想だか妄想だかに。私そういうのに出てみたいのよ。これ友だちだから頼むのよ。だってこんなこと他の人に頼めないじゃない。今夜マスターベーションするときちょっと私のこと考えてねcなんて誰にでも言えることじゃないじゃない。あなたをお友だちだと思えばこそ頼むのよ。そしてどんなだったかあとで教えてほしいの。どんなことしただとか」

  僕はため息をついた。

  「でも入れちゃ駄目よ。私たちお友だちなんだから。ね入れなければあとは何してもいいわよc何考えても」

  「どうかな。そういう制約のあるやつってあまりやったことないからねえ」と僕は言った。

  「考えておいてくれる」

  「考えておくよ」

  「あのねワタナベ君。私のことをとか欲求不満だとか挑発的だとかいう風には思わないでね。私ただそういうことにすごく興味があってcすごく知りたいだけなの。ずっと女子校で女の子だけの中で育ってきたでしょ男の人が何を考えてcその体のしくみがどうなってるのかってcそういうことをすごく知りたいのよ。それも婦人雑誌のとじこみとかそういうんじゃなくてcいわばケーススタディーとして」

  「ケーススタディー」と僕は絶望的につぶやいた。

  「でも私がいろんなことを知りたがったりやりたがったりするとc彼不機嫌になったり怒ったりするの。だって言って。私の頭が変だって言うのよ。フェラチオだってなかなかさせてくれないの。私あれすごく研究してみたいのに」

  「ふむ」と僕は言った。

  「あなたフェラチオされるの嫌」

  「嫌じゃないよcべつに」

  「どちらかというと好き」

  「どちらかというと好きだよ」と僕は言った。「でもその話また今度にしない今日はとても気持の良い日曜の朝だしcマスターベーションとフェラチオの話をしてつぶしたくないんだ。もっと違う話をしようよ。君の彼はうちの大学の人」

  「ううんcよその大学よcもちろん。私たち高校のときのクラブ活動で知りあったの。私は女子校でc彼は男子校でcほらよくあるでしょう合同コンサートとかcそういうの。恋人っていう関係になったのは高校出ちゃったあとだけれど。ねえcワタナベ君」

  「うん」

  「本当に一回でいいから私のことを考えてよね」

  「試してみるよc今度」と僕はあきらめて言った。

  我々は駅から電車に乗ってお茶の水まで行った。僕は朝食を食べていなかったので新宿駅で乗りかえるときに駅のスタンドで薄いサンドイッチを買って食べc新聞のインクを煮たような味のするコーヒーを飲んだ。日曜の朝の電車はこれからどこかに出かけようとする家族連れやカップルでいっぱいだった。揃いのユニフォームを着た男の子の一群がバットを下げて車内をばたばたと走りまわっていた。電車の中には短いスカートをはいた女の子が何人もいたけれどc緑くらい短いスカートをはいたのは一人もいなかった。緑はときどききゅっきゅっとスカートの裾をひっばって下ろした。何人かの男はじろじろと彼女の太腿を眺めたのでどうも落ちつかなかったがc彼女の方はそういうのはたいして気にならないようだった。

  「ねえc私が今いちばんやりたいことわかる」と市ヶ谷あたりで緑が小声で言った。

  「見当もつかない」と僕は言った。「でもお願いだからc電車の中ではその話しないでくれよ。他の人に聞こえるとまずいから」

  「残念ね。けっこうすごいやつなのにc今回のは」と緑はいかにも残念そうに言った。

  「ところでお茶の水に何があるの」

  「まあついてらっしゃいよcそうすればわかるから」

  日曜日のお茶の水は模擬テストだか予備校の講習だかに行く中学生や高校生でいっばいだった。緑は左手でショルダーバッグのストラップを握りc右手で僕の手をとってcそんな学生たちの人ごみの中をするすると抜けていった。

  「ねえワタナベ君c英語の仮定法現在と仮定法過去の違いをきちんと説明できる」と突然僕に質問した。

  「できると思うよ」と僕は言った。

  「ちょっと訊きたいんだけれどcそういうのが日常生活の中で何かの役に立ってる」

  「日常生活の中で役に立つということはあまりないね」と僕は言った。「でも具体的に何かの役に立つというよりはcそういうのは物事をより系統的に捉えるための訓練になるんだと僕は思ってるけれど」

  緑はしばらくそれについて真剣な顔つきで考えこんでいた。「あなたって偉いのね」と彼女は言った。「私これまでそんなこと思いつきもしなかったわ。仮定法だの微分だの化学記号だのcそんなもの何の役にも立つもんですかとしか考えなかったわ。だからずっと無視してやってきたのcそういうややっこしいの。私の生き方は間違っていたのかしら」

  「無視してやってきた」

  「ええそうよ。そういうのcないものとしてやってきたの。私cサインcコサインだって全然わっかてないのよ」

  「それでまあよく高校を出て大学に入れたもんだよね」と僕はあきれて言った。

  「あなた馬鹿ねえ」と緑は言った。「知らないの勘さえ良きゃ何も知らなくても大学の試験なんて受かっちゃうのよ。私すごく勘がいいのよ。次の三つの中から正しいものを選べなんてパッとわかっちゃうもの」

  「僕は君ほど勘が良くないからcある程度系統的なものの考え方を身につける必要があるんだ。鴉が木のほらにガラスを貯めるみたいに」

  「そういうのが何か役に立つのかしら」

  「どうかな」と僕は言った。「まあある種のことはやりやすくなるだろね」

  「たとえばどんなことが」

  「形而上的思考c数ヵ国語の習得cたとえばね」

  「それが何かの役に立つのかしら」

  「それはその人次第だね。役に立つ人もいるしc立たない人もいる。でもそういうのはあくまで訓練なんであって役に立つ立たないはその次の問題なんだよ。最初にも言ったように」

  「ふうん」と緑は感心したように言ってc僕の手を引いて坂道を下りつづけた。「ワタナベク君って人にもの説明するのがとても上手なのね」

  「そうかな」

  「そうよ。だってこれまでいろんな人に英語の仮定法は何の役に立つのって質問したけれどc誰もそんな風にきちんと説明してくれなかったわ。英語の先生でさえよ。みんな私がそういう質問すると混乱するかc怒るかc馬鹿にするかcそのどれかだったわ。誰もちゃんと教えてくれなかったの。そのときにあなたみたいな人がいてきちと説明してくれたらc私だって仮定法に興味持てたかもしれないのに」

  「ふむ」と僕は言った。

  「あなた資本論って読んだことある」と緑が訊いた。

  「あるよ。もちろん全部は読んでないけど。他の大抵の人と同じように」

  「理解できた」

  「理解できるところもあったしcできないところもあった。資本論を正確に読むにはそうするための思考システムの習得が必要なんだよ。もちろん総体としてのマルクシズムはだいたいは理解できていると思うけれど」

  「その手の本をあまり読んだことのない大学の新入生が資本論読んですっと理解できると思う」

  「まず無理じゃないかなcそりゃ」と僕は言った。

  「あのねc私c大学に入ったときフォークの関係のクラブに入ったの。唄を唄いたかったから。それがひどいインチキな奴らの揃ってるところでねc今思いだしてもゾッとするわよ。そこに入るとねcまずマルクスを読ませられるの。何ベージから何ベージまで読んでこいってね。フォークソングと社会とラディカルにかかわりあわねばならぬものであってなんて演説があってね。でcまあ仕方ないから私一生懸命マルクス読んだわよc家に帰って。でも何がなんだか全然わかんないのc仮定法以上に。三ページで放りだしちゃたわ。それで次の週のミーティングでc読んだけど何もわかりませんでしたcハイって言ったの。そしたらそれ以来馬鹿扱いよ。問題意識がないのだのc社会性に欠けるだのね。冗談じゃないわよ。私ただ文章が理解できなかったって言っただけなのに。そんなのひどいと思わない」

  「ふむ」と僕は言った。

  「ディスカッションってのがまたひどくってね。みんなわかったような顔してむずかしい言葉使ってるのよ。それで私わかんないからそのたびに質問したの。その帝国主義的搾取って何のことですか東インド会社と何か関係あるんですかとかc産学協同体粉砕って大学を出て会社に就職しちゃいけないってことですかとかね。でも誰も説明してくれなかったわ。それどころか真剣に怒るの。そういうのって信じられる」

  「信じられる」

  「そんなことわからないでどうするんだよc何考えて生きてるんだお前これでおしまいよ。そんなのないわよ。そりゃ私そんない頭良くないわよ。庶民よ。でも世の中を支えてるのは庶民だしc搾取されてるのは庶民じゃない。庶民にわからない言葉ふりまわして何が革命よc何が社会変革よ私だってねc世の中良くしたいと思うわよ。もし誰かが本当に搾取されているのならそれやめさせなくちゃいけないと思うわよ。だからこの質問するわけじゃない。そうでしょ」

  「そうだね」

  「そのとき思ったわc私。こいつらみんなインチキだって。適当に偉そうな言葉ふりまわしていい気分になってc新入生の女の子を感心させてcスカートの中に手をつっこむことしか考えてないのよcあの人たち。そして四年生になったら髪の毛短くして三菱商事だのtbsだのibの富士銀行だのにさっさと就職してcマルクスなんて読んだこともないかわいい奥さんもらって子供にいやみったらしい凝った名前つけるのよ。何が産学協同体粉砕よ。おかしくって涙が出てくるわよ。他の新入生だってひどいわよ。みんな何もわかってないのにわかったような顔してへらへらしてるんだもの。そしてあとで私に言うのよ。あなた馬鹿ねえcわかんなくだってハイハイそうですねって言ってりゃいいのよって。ねえcもっと頭に来たことあるんだけど聞いてくれる」

  「聞くよ」

  「ある日私たち夜中の政治集会に出ることになってc女の子たちはみんな一人二十個ずつの夜食用のおにぎり作って持ってくることって言われたの。冗談じゃないわよcそんな完全な性差別じゃない。でもまあいつも波風立てるのもどうかと思うから私何にも言わずにちゃんとおにぎり二十個作っていったわよ。梅干しいれて海苔まいて。そうしたらあとでなんて言われたと思う小林のおにぎりは中に梅干ししか入ってなかったcおかずもついてなかったって言うのよ。他の女の子のは中に鮭やタラコが入っていたしc玉子焼なんかがついてたりしたんですって。もうアホらしくて声も出なかったわね。革命云々を論じている連中がなんで夜食のおにぎりのことくらいで騒ぎまわらなくちゃならないのよcいちいち。海苔がまいてあって中に梅干しが入ってりゃ上等じゃないの。インドの子供のこと考えてごらんなさいよ」

  僕は笑った。「それでそのクラブはどうしたの」

  「六月にやめたわよcあんまり頭にきたんで」と緑は言った。「でもこの大学の連中は殆んどインチキよ。みんな自分が何かをわかってないことを人に知られるのが怖くってしようがなくてビクビクした暮らしてるのよ。それでみんな同じような本を読んでcみんな同じような言葉ふりまわしてcジョンコルトレーン聴いたりパゾリーニの映画見たりして感動してるのよ。そういうのが革命なの」

  「さあどうかな。僕は実際に革命を目にしたわけじゃないからなんとも言えないよね」

  「こういうのが革命ならc私革命なんていらないわ。私きっとおにぎりに梅干ししか入れなかったっていう理由で銃殺されちゃうもの。あなただってきっと銃殺されちゃうわよ。仮定法をきちんと理解してるというような理由で」

  「ありうる」と僕は言った。

  「ねえc私にはわかっているのよ。私は庶民だから。革命が起きようが起きまいがc庶民というのはロクでもないところでぼちぼちと生きていくしかないんだっていうことが。革命が何よそんなの役所の名前が変わるだけじゃない。でもあの人たちにはそういうのが何もわかってないのよ。あの下らない言葉ふりまわしてる人たちには。あなた税務署員って見たことある」

  「ないな」

  「私c何度も見たわよ。家の中にずかずか入ってきて威張るの。何cこの帳簿おたくいい加減な商売やってるねえ。これ本当に経費なの領収書見せなさいよc領収書cなんてね。私たち隅の方にこそっといてcごはんどきになると特上のお寿司の出前とるの。でもねcうちのお父さんは税金ごまかしたことなんて一度もないのよ。本当よ。あの人そういう人なのよc昔気質で。それなのに税務署員ってねちねちねちねち文句つけるのよね。収入がちょっと少なすぎるんじゃないのcこれって。冗談じゃないわよ。収入が少ないのはもうかってないからでしょうが。そういうの聞いてると私悔しくってね。もっとお金持ちのところ行ってそういうのやんなさいよってどなりつけたくなってくるのよ。ねえcもし革命が起ったら税務署員の態度って変ると思う」

  「きわめて疑わしいね」

  「じゃあ私c革命なんて信じないわ。私は愛情しか信じないわ」

  「ピース」と僕は言った。

  「ピース」と緑も言った。

  「我々は何処に向かっているんだろうcところで」と僕は訊いてみた。

  「病院よ。お父さんが入院していてc今日いちにち私がつきそってなくちゃいけないの。私の番なの」

  「お父さん」と僕はびっくりして言った。「お父さんはウルグァイに行っちゃったんじゃなかったの」

  「嘘よcそんなの」と緑はけ

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