正文 第31节
ろりとした顔で言った。「本人は昔からウルグァイに行くだってわめいてるけどc行けるわけないわよ。本当に東京の外にだってロクに出られないんだから」
「具合はどうなの」
「はっきり言って時間の問題ね」
我々はしばらく無言のまま歩を運んだ。
「お母さんの病気と同じだからよくわかるよ。脳腫瘍。信じられる二年前にお母さんそれで死んだばかりなのよ。そしたら今度はお父さんが脳種瘍」
大学病院の中は日曜日というせいもあって見舞客と軽い症状の病人でごだごだと混みあっていた。そしてまぎれもない病院の匂いが漂っていた。消毒薬と見舞いの花束と小便と布団の匂いがひとつになって病院をすっぽりと覆ってc看護婦がコツコツと乾いた靴音を立ててその中を歩きまわっていた。
緑の父親は二人部屋の手前のベットに寝ていたc彼の寝ている姿は深手を負った小動物を思わせた。横向きにぐったりと寝そべりc点滴の針のささった左腕だらんとのばしたまま身動きひとつしなかった。やせた小柄な男だったがcこれからもっとやせてもと小さくなりそうだという印象を見るものに与えていた。頭には白い包帯がまきつけられc青白い腕には注射だか点滴の針だかのあとが点々とついていた。彼は半分だけ開けた目で空間の一点をぼんやりと見ていたがc僕が入っていくとその赤く充血した目を少しだけ動かして我々の姿を見た。そして十秒ほど見てからまた空間の一点にその弱々しい視線を戻した。
その目を見るとcこの男はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。彼の体には生命力というものが殆んど見うけられなかった。そこにあるものはひとつの生命の弱々しい微かな痕跡だった。それは家具やら建具やらを全部運び出されて解体されるのを待っているだけの古びた家屋のようなものだった。乾いた唇のまわりにはまるで雑草のようにまばらに不精髭がはえていた。これほど生命力を失った男にもきちんと髭だけははえてくるんだなと僕は思った。
緑は窓側のベットに寝ている肉づきの良い中年の男に「こんにちは」と声をかけた。相手はうまくしゃべれないらしくにっこりと肯いただけだった。彼は二c三度咳をしてから枕もとに置いてあった水を飲みcそれからもそもそと体を動かして横向けになって窓の外に目をやった。窓の外には電柱と電線が見えた。その他には何にも見えなかった。空には雲の姿すらなかった。
「どうcお父さんc元気」と緑が父親の耳の穴に向けってしゃべりかけた。まるでマイクロフォンのテストをしているようなしゃべり方だった。「どうc今日は」
父親はもそもそと唇を動かした。cよくないcと彼は言った。しゃべるというのではなくc喉の奥にある乾いた空気をとりあえず言葉に出してみたといった風だった。cあたまcと彼は言った。
「頭が痛いの」と緑が訊いた。
cそうcと父親が言った。四音節以上の言葉はうまくしゃべれないらしかった。
「まあ仕方ないわね。手術の直後だからそりゃ痛むわよ。可哀そうだけどcもう少し我慢しなさい」と緑は言った。「この人ワタナベ君。私のお友だち」
はじめましてcと僕は言った。父親は半分唇を開きcそして閉じた。
「そこに座っててよ」と緑はベットの足もとにある丸いビニールの椅子を指した。僕は言われたとおりそこに腰を下ろした。緑は父親に水さしの水を少し飲ませc果物かフルーツゼリーを食べたくないかと訊いた。cいらないcと父親は言った。でも少し食べなきゃ駄目よ緑が言うとc食べたcと彼は答えた。
ベットの枕もとには物入れを兼ねた小テブールのようなものがあってcそこに水さしやコップや皿や小さな時計がのっていた。緑はその下に置いてあった大きな紙袋の中から寝巻の着替えや下着やその他細々としたものをとり出して整理しc入口のわきにあるロッカの中に入れた。紙袋の底の方には病人のための食べものが入っていた。グレープフルーツが二個とフルーツゼリーとキウリが三本。
「キウリ」と緑がびっくりしたようなあきれた声を出した。「なんでまたキウリなんてものがここにあるのよまったくお姉さん何を考えているかしらね。想像もつかないわよ。ちゃんと買物はこれこれやっといてくれって電話で言ったのに。キウリ買ってくれなんて言わなかったわよc私」
「キウイと聞きまちがえたんじゃないかな」と僕は言ってみた。
緑はぱちんと指を鳴らした。「たしかにcキウイって頼んだわよ。それよね。でも考えりゃわかるじゃないなんで病人が生のキウリをかじるのよお父さんcキウリ食べたい」
cいらないcと父親は言った。
緑は枕もとに座って父親にいろんな細々した話をした。tvの映りがわるくなって修理を呼んだとかc高井戸のおばさんが二c三日のうち一度見舞にくるって言ってたとかc薬局の宮脇さんがバイクに乗ってて転がだとかcそういう話だった。父親はそんな話に対したcうんうんcと返事をしているだけだった。
「本当に何か食べたくないcお父さん」
cいらないcと父親は答えた。
「ワタナベ君cグレープフルーツ食べない」
「いらない」と僕も答えた。
少しあとで緑は僕を誘ってtv室に行きcそこのソファーに座って煙草一本吸った。tv室ではパジャマ姿の病人が三人でやはり煙草を吸いながら政治討論会のような番組を見ていた。
「ねえcあそこの松葉杖持ってるおじさんc私の脚をさっきからちらちら見てるのよ。あのブルーのパジャマの眼鏡のおじさん」と緑は楽しそうに言った。
「そりゃ見るさ。そんなスカートはいてりゃみんな見るさ」
「でもいいじゃない。どうせみんな退屈してんだろしcたまには若い女の子の脚見るのもいいものよ。興奮して回復が早まるんじゃないかしら」
「逆にならなきゃいいけど」と僕は言った。
緑はしばらくまっすぐ立ちのぼる煙草の煙を眺めていた。
「お父さんのことだけどね」緑は言った。「あの人c悪い人じゃないのよ。ときどきひどいこと言うから頭にくるけどc少くとも根は正直な人だしcお母さんのこと心から愛していたわ。それにあの人はあの人なりに一所懸命生きてきたのよ。性格もいささか弱いところがあったしc商売の才覚もなかったしc人望もなかったけどcでもうそばかりついて要領よくたちまわってるまわりの小賢しい連中に比べたらずっとまともな人よ。私も言いだすとあとに引かない性格だからc二人でしょっちゅう喧嘩してたけどね。でも悪い人じゃないのよ」
緑は何か道に落ちていたものでも拾うみたいに僕の手をとってc自分の膝の上に置いた。僕の手の半分はスカートの布地の上にcあとの半分は太腿の上にのっていた。彼女はしばらく僕の顔を見ていた。
「あのねcワタナベ君cこんなところで悪いんだけどcもう少し私と一緒にここにいてくれる」
「五時までは大丈夫だからずっといるよ」と僕は言った。「君と一緒にいるのは楽しいしc他に何もやることもないもの」
「日曜日はいつも何をしてるの」
「洗濯」と僕は言った。「そしてアイロンがけ」
「ワタナベ君c私にその女の人のことあまりしゃべりたくないでしょそのつきあっている人のこと」
「そうだね。あまりしゃべりたくないね。つまり複雑だしcうまく説明できそうにないし」
「いいわよべつに。説明しなくても」と緑は言った。「でも私の想像してることちょっと言ってみていいかしら」
「どうぞ。君の想像することってc面白そうだから是非聞いてみたいね」
「私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だ思うの」
「ふむ」と僕は言った。
「三十二か三くらいの綺麗なお金持ちの奥さんでc毛皮のコートとかシャルルジュールダンの靴とか絹の下着とかcそういうタイプでおまけにものすごくセックスに飢えてるの。そしてものすごくいやらしいことをするの。平日の昼下がりにcワタナベ君と二人で体を貪りあうの。でも日曜日は御主人が家にいるからあなたと会えないの。違う」
「なかなか面白い線をついてるね」と僕は言った。
「きっと体を縛らせてc目かくしさせてc体の隅から隅までべろべろと舐めさせたりするのよね。それからほらc変なものを入れさせたりcアクロバートみたいな格好をしたりcそういうところをポラロイドカメラで撮ったりもするの」
「楽しそうだな」
「ものすごく飢えてるからもうやれることはなんだってやっちゃうの。彼女は毎日毎日考えをめぐらせているわけ。何しろ暇だから。今度ワタナベ君が来たらこんなこともしようcあんなこともしようってね。そしてベットに入ると貪欲にいろんな体位で三回くらいイッちゃうの。そしてワタナベ君にこう言うの。どうc私の体って凄いでしょあなたもう若い女の子なんかじゃ満足できないわよ。ほらc若い子がこんなことやってくれるどう感じるでも駄目よcまだ出しちゃなんてね」
「君はポルノ映画見すぎていると思うね」と僕は笑って言った。
「やっばりそうかなあ」と緑は言った。「でも私cポルノ映画って大好きなの。今度一緒に見にいかない」
「いいよ。君が暇なときに一緒に行こう」
「本当すごく楽しみ。sやつに行きましょうね。ムチでばしばし打ったりc女の子にみんなの前でおしっこさせたりするやつ。私あの手のが大好きなの」
「いいよ」
「ねえワタナベ君cポルノ映画館で私がいちばん好きなもの何か知ってる」
「さあ見当もつかないね」
「あのねcセックスシーンになるとんねcまわりの人がみんなゴクンって唾を呑みこむ音が聞こえるの」と緑は言った。「そのゴクンっていう音が大好きなのc私。とても可愛いくって」
病室に戻ると緑はまた父親に向っていろんな話をしc父親の方はcああcとかcうんcとあいづちを打ったりc何にも言わずに黙っていたりした。十一時頃隣りのベットで寝ている男の奥さんがやってきてc夫の寝巻をとりかえたり果物をむいてやったりした。丸顔の人の好さそうな奥さんでc緑と二人でいろいろと世間話をした。看護婦がやってきて点滴の瓶を新しいものととりかえc緑と隣りの奥さんと少し話をしてから帰っていった。そのあいだ僕は何をするともなく部屋の中をぼんやりと眺めまわしたりc窓の外の電線をみたりしていた。ときどき雀がやってきて電線にとまった。緑は父親に話しかけc汗を拭いてやったりc痰をとってやったりc隣りの奥さんや看護婦と話したりc僕にいろいろ話しかけたりc点滴の具合をチェックしたりしていた。
十一時半に医師の回診があったのでc僕と緑は廊下に出て待っていた。医者が出てくるとc緑は「ねえ先生cどんな具合ですか」と訊ねた。
「手術後まもないし痛み止めの処置してあるからcまあ相当消耗はしてるよな」と医者は言った。「手術の結果はあと二c三日経たんことにはわからんよねc私にも。うまく行けばうまく行くしcうまく行かんかったらまたその時点で考えよう」
「また頭開くんじゃないでしょうね」
「それはそのときでなくちゃなんとも言えんよな」と医者は言った。「おい今日はえらい短かいスカートはいてるじゃないか」
「素敵でしょ」
「でも階段上るときどうするんだcそれ」と医者が質問した。
「何もしませんよ。ばっちり見せちゃうの」と緑が言ってcうしろの看護婦がくすくす笑った。
「君cそのうちに一度入院して頭を開いて見てもらった方がいいぜ」とあきれたように医者が言った。「それからこの病院の中じゃなるべくエレベーターを使ってくれよな。これ以上病人増やしたくないから。最近ただでさえ忙しいんだから」
回診が終わって少しすると食事の時間になった。看護婦がワゴンに食事をのせて病室から病室へと配ってまわった。緑の父親のものはポタージュスープとフルーツとやわらかく煮て骨をとった魚とc野菜をすりつぶしてゼリー状したようなものだった。緑は父親をあおむけに寝かせ足もとのハンドルをぐるぐるとまわしてベットを上に起こしcスプーンでスープをすくって飲ませた。父親は五c六口飲んでから顔をそむけるようにしていらないcと言った。
「これくらいc食べなくちゃ駄目よcあなた」と緑は言った。
父親はcあとでcと言った。
「しょうがないわね。ごはんちゃんと食べないと元気出ないわよ」と緑が言った。「おしっこはまだ大丈夫」
cああcと父親は答えた。
「ねえワタナベ君c私たち下の食堂にごはん食べに行かない」と緑が言った。
いいよcと僕は言ったがc正直なところ何かを食べたいという気にはあまりなれなかった。食堂は医者やら看護婦やら見舞い客やらでごったかえしていた。窓がひとつもない地下のがらんとしたホールに椅子とテーブルがずらりと並んでいてcそこでみんなが食事をとりながら口ぐちに何かをしゃべっていて――たぶん病気の話だろう――それが地下道の中みたいにわんわんと響いていた。ときどきそんな響きを圧してc医者や看護婦を呼び出す放送が流れた。僕がテーブルを確保しているあいだにc緑が二人分の定食をアルミニウムの盆にのせて運んできてくれた。クリームコロッケとポテトサラダとキャベツのせん切りと煮物とごはんと味噌汁という定食が病人用のものと同じ白いプラスチックの食器に盛られて並んでいた。僕は半分ほど食べてあとを残した。緑はおいしそうに全部食べてしまった。
「ワタナベ君cあまりおなかすいてないの」と緑が熱いお茶をすすりながら言った。
「うんcあまりね」と僕は言った。
「病院のせいよ」と緑はぐるりを見まわしながら言った。「馴れない人はみんなそうなの。匂いc音cどんよりとした空気c病人の顔c緊張感c荷立ちc失望c苦痛c疲労――そういうもののせいなのよ。そういうものが胃をしめつけて人の食欲をなくさせるのよ。でも馴れちゃえばそんなのどうってことないのよ。それにごはんしっかり食べておかなきゃ看病なんてとてもできないわよ。本当よ。私おじいさんcおばあさんcお母さんcお父さんと四人看病してきたからよく知ってるのよ。何かあって次のごはんが食べられないことだってあるんだから。だから食べられるときにきちんと食べておかなきゃ駄目なのよ」
「君の言ってることはわかるよ」と僕は言った。
「親戚の人が見舞いに来てくれて一緒にここでごはん食べるでしょcするとみんなやはり半分くらい残すのよcあなたと同じように。でねc私がぺロッと食べちゃうとミドリちゃんは元気でいいわねえ。あたしなんかもう胸いっぱいでごはん食べられないわよって言うの。でもねc看病してるのはこの私なのよ。冗談じゃないわよ。他の人はたまに来て同情するだけじゃない。ウンコの世話したり痰をとったり体拭いてあげたりするのはこの私なのよ。同情するでけでウンコがかたづくんならc私みんなの五十倍くらい同情しちゃうわよ。それなのに私がごはん全部食べるとみんな私のことを非難がましい目で見てミドリちゃんは元気でいいわねえだもの。みんなは私のことを荷車引いてるロバか何かみたいに思ってるのかしら。いい年をした
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「具合はどうなの」
「はっきり言って時間の問題ね」
我々はしばらく無言のまま歩を運んだ。
「お母さんの病気と同じだからよくわかるよ。脳腫瘍。信じられる二年前にお母さんそれで死んだばかりなのよ。そしたら今度はお父さんが脳種瘍」
大学病院の中は日曜日というせいもあって見舞客と軽い症状の病人でごだごだと混みあっていた。そしてまぎれもない病院の匂いが漂っていた。消毒薬と見舞いの花束と小便と布団の匂いがひとつになって病院をすっぽりと覆ってc看護婦がコツコツと乾いた靴音を立ててその中を歩きまわっていた。
緑の父親は二人部屋の手前のベットに寝ていたc彼の寝ている姿は深手を負った小動物を思わせた。横向きにぐったりと寝そべりc点滴の針のささった左腕だらんとのばしたまま身動きひとつしなかった。やせた小柄な男だったがcこれからもっとやせてもと小さくなりそうだという印象を見るものに与えていた。頭には白い包帯がまきつけられc青白い腕には注射だか点滴の針だかのあとが点々とついていた。彼は半分だけ開けた目で空間の一点をぼんやりと見ていたがc僕が入っていくとその赤く充血した目を少しだけ動かして我々の姿を見た。そして十秒ほど見てからまた空間の一点にその弱々しい視線を戻した。
その目を見るとcこの男はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。彼の体には生命力というものが殆んど見うけられなかった。そこにあるものはひとつの生命の弱々しい微かな痕跡だった。それは家具やら建具やらを全部運び出されて解体されるのを待っているだけの古びた家屋のようなものだった。乾いた唇のまわりにはまるで雑草のようにまばらに不精髭がはえていた。これほど生命力を失った男にもきちんと髭だけははえてくるんだなと僕は思った。
緑は窓側のベットに寝ている肉づきの良い中年の男に「こんにちは」と声をかけた。相手はうまくしゃべれないらしくにっこりと肯いただけだった。彼は二c三度咳をしてから枕もとに置いてあった水を飲みcそれからもそもそと体を動かして横向けになって窓の外に目をやった。窓の外には電柱と電線が見えた。その他には何にも見えなかった。空には雲の姿すらなかった。
「どうcお父さんc元気」と緑が父親の耳の穴に向けってしゃべりかけた。まるでマイクロフォンのテストをしているようなしゃべり方だった。「どうc今日は」
父親はもそもそと唇を動かした。cよくないcと彼は言った。しゃべるというのではなくc喉の奥にある乾いた空気をとりあえず言葉に出してみたといった風だった。cあたまcと彼は言った。
「頭が痛いの」と緑が訊いた。
cそうcと父親が言った。四音節以上の言葉はうまくしゃべれないらしかった。
「まあ仕方ないわね。手術の直後だからそりゃ痛むわよ。可哀そうだけどcもう少し我慢しなさい」と緑は言った。「この人ワタナベ君。私のお友だち」
はじめましてcと僕は言った。父親は半分唇を開きcそして閉じた。
「そこに座っててよ」と緑はベットの足もとにある丸いビニールの椅子を指した。僕は言われたとおりそこに腰を下ろした。緑は父親に水さしの水を少し飲ませc果物かフルーツゼリーを食べたくないかと訊いた。cいらないcと父親は言った。でも少し食べなきゃ駄目よ緑が言うとc食べたcと彼は答えた。
ベットの枕もとには物入れを兼ねた小テブールのようなものがあってcそこに水さしやコップや皿や小さな時計がのっていた。緑はその下に置いてあった大きな紙袋の中から寝巻の着替えや下着やその他細々としたものをとり出して整理しc入口のわきにあるロッカの中に入れた。紙袋の底の方には病人のための食べものが入っていた。グレープフルーツが二個とフルーツゼリーとキウリが三本。
「キウリ」と緑がびっくりしたようなあきれた声を出した。「なんでまたキウリなんてものがここにあるのよまったくお姉さん何を考えているかしらね。想像もつかないわよ。ちゃんと買物はこれこれやっといてくれって電話で言ったのに。キウリ買ってくれなんて言わなかったわよc私」
「キウイと聞きまちがえたんじゃないかな」と僕は言ってみた。
緑はぱちんと指を鳴らした。「たしかにcキウイって頼んだわよ。それよね。でも考えりゃわかるじゃないなんで病人が生のキウリをかじるのよお父さんcキウリ食べたい」
cいらないcと父親は言った。
緑は枕もとに座って父親にいろんな細々した話をした。tvの映りがわるくなって修理を呼んだとかc高井戸のおばさんが二c三日のうち一度見舞にくるって言ってたとかc薬局の宮脇さんがバイクに乗ってて転がだとかcそういう話だった。父親はそんな話に対したcうんうんcと返事をしているだけだった。
「本当に何か食べたくないcお父さん」
cいらないcと父親は答えた。
「ワタナベ君cグレープフルーツ食べない」
「いらない」と僕も答えた。
少しあとで緑は僕を誘ってtv室に行きcそこのソファーに座って煙草一本吸った。tv室ではパジャマ姿の病人が三人でやはり煙草を吸いながら政治討論会のような番組を見ていた。
「ねえcあそこの松葉杖持ってるおじさんc私の脚をさっきからちらちら見てるのよ。あのブルーのパジャマの眼鏡のおじさん」と緑は楽しそうに言った。
「そりゃ見るさ。そんなスカートはいてりゃみんな見るさ」
「でもいいじゃない。どうせみんな退屈してんだろしcたまには若い女の子の脚見るのもいいものよ。興奮して回復が早まるんじゃないかしら」
「逆にならなきゃいいけど」と僕は言った。
緑はしばらくまっすぐ立ちのぼる煙草の煙を眺めていた。
「お父さんのことだけどね」緑は言った。「あの人c悪い人じゃないのよ。ときどきひどいこと言うから頭にくるけどc少くとも根は正直な人だしcお母さんのこと心から愛していたわ。それにあの人はあの人なりに一所懸命生きてきたのよ。性格もいささか弱いところがあったしc商売の才覚もなかったしc人望もなかったけどcでもうそばかりついて要領よくたちまわってるまわりの小賢しい連中に比べたらずっとまともな人よ。私も言いだすとあとに引かない性格だからc二人でしょっちゅう喧嘩してたけどね。でも悪い人じゃないのよ」
緑は何か道に落ちていたものでも拾うみたいに僕の手をとってc自分の膝の上に置いた。僕の手の半分はスカートの布地の上にcあとの半分は太腿の上にのっていた。彼女はしばらく僕の顔を見ていた。
「あのねcワタナベ君cこんなところで悪いんだけどcもう少し私と一緒にここにいてくれる」
「五時までは大丈夫だからずっといるよ」と僕は言った。「君と一緒にいるのは楽しいしc他に何もやることもないもの」
「日曜日はいつも何をしてるの」
「洗濯」と僕は言った。「そしてアイロンがけ」
「ワタナベ君c私にその女の人のことあまりしゃべりたくないでしょそのつきあっている人のこと」
「そうだね。あまりしゃべりたくないね。つまり複雑だしcうまく説明できそうにないし」
「いいわよべつに。説明しなくても」と緑は言った。「でも私の想像してることちょっと言ってみていいかしら」
「どうぞ。君の想像することってc面白そうだから是非聞いてみたいね」
「私はワタナベ君のつきあっている相手は人妻だ思うの」
「ふむ」と僕は言った。
「三十二か三くらいの綺麗なお金持ちの奥さんでc毛皮のコートとかシャルルジュールダンの靴とか絹の下着とかcそういうタイプでおまけにものすごくセックスに飢えてるの。そしてものすごくいやらしいことをするの。平日の昼下がりにcワタナベ君と二人で体を貪りあうの。でも日曜日は御主人が家にいるからあなたと会えないの。違う」
「なかなか面白い線をついてるね」と僕は言った。
「きっと体を縛らせてc目かくしさせてc体の隅から隅までべろべろと舐めさせたりするのよね。それからほらc変なものを入れさせたりcアクロバートみたいな格好をしたりcそういうところをポラロイドカメラで撮ったりもするの」
「楽しそうだな」
「ものすごく飢えてるからもうやれることはなんだってやっちゃうの。彼女は毎日毎日考えをめぐらせているわけ。何しろ暇だから。今度ワタナベ君が来たらこんなこともしようcあんなこともしようってね。そしてベットに入ると貪欲にいろんな体位で三回くらいイッちゃうの。そしてワタナベ君にこう言うの。どうc私の体って凄いでしょあなたもう若い女の子なんかじゃ満足できないわよ。ほらc若い子がこんなことやってくれるどう感じるでも駄目よcまだ出しちゃなんてね」
「君はポルノ映画見すぎていると思うね」と僕は笑って言った。
「やっばりそうかなあ」と緑は言った。「でも私cポルノ映画って大好きなの。今度一緒に見にいかない」
「いいよ。君が暇なときに一緒に行こう」
「本当すごく楽しみ。sやつに行きましょうね。ムチでばしばし打ったりc女の子にみんなの前でおしっこさせたりするやつ。私あの手のが大好きなの」
「いいよ」
「ねえワタナベ君cポルノ映画館で私がいちばん好きなもの何か知ってる」
「さあ見当もつかないね」
「あのねcセックスシーンになるとんねcまわりの人がみんなゴクンって唾を呑みこむ音が聞こえるの」と緑は言った。「そのゴクンっていう音が大好きなのc私。とても可愛いくって」
病室に戻ると緑はまた父親に向っていろんな話をしc父親の方はcああcとかcうんcとあいづちを打ったりc何にも言わずに黙っていたりした。十一時頃隣りのベットで寝ている男の奥さんがやってきてc夫の寝巻をとりかえたり果物をむいてやったりした。丸顔の人の好さそうな奥さんでc緑と二人でいろいろと世間話をした。看護婦がやってきて点滴の瓶を新しいものととりかえc緑と隣りの奥さんと少し話をしてから帰っていった。そのあいだ僕は何をするともなく部屋の中をぼんやりと眺めまわしたりc窓の外の電線をみたりしていた。ときどき雀がやってきて電線にとまった。緑は父親に話しかけc汗を拭いてやったりc痰をとってやったりc隣りの奥さんや看護婦と話したりc僕にいろいろ話しかけたりc点滴の具合をチェックしたりしていた。
十一時半に医師の回診があったのでc僕と緑は廊下に出て待っていた。医者が出てくるとc緑は「ねえ先生cどんな具合ですか」と訊ねた。
「手術後まもないし痛み止めの処置してあるからcまあ相当消耗はしてるよな」と医者は言った。「手術の結果はあと二c三日経たんことにはわからんよねc私にも。うまく行けばうまく行くしcうまく行かんかったらまたその時点で考えよう」
「また頭開くんじゃないでしょうね」
「それはそのときでなくちゃなんとも言えんよな」と医者は言った。「おい今日はえらい短かいスカートはいてるじゃないか」
「素敵でしょ」
「でも階段上るときどうするんだcそれ」と医者が質問した。
「何もしませんよ。ばっちり見せちゃうの」と緑が言ってcうしろの看護婦がくすくす笑った。
「君cそのうちに一度入院して頭を開いて見てもらった方がいいぜ」とあきれたように医者が言った。「それからこの病院の中じゃなるべくエレベーターを使ってくれよな。これ以上病人増やしたくないから。最近ただでさえ忙しいんだから」
回診が終わって少しすると食事の時間になった。看護婦がワゴンに食事をのせて病室から病室へと配ってまわった。緑の父親のものはポタージュスープとフルーツとやわらかく煮て骨をとった魚とc野菜をすりつぶしてゼリー状したようなものだった。緑は父親をあおむけに寝かせ足もとのハンドルをぐるぐるとまわしてベットを上に起こしcスプーンでスープをすくって飲ませた。父親は五c六口飲んでから顔をそむけるようにしていらないcと言った。
「これくらいc食べなくちゃ駄目よcあなた」と緑は言った。
父親はcあとでcと言った。
「しょうがないわね。ごはんちゃんと食べないと元気出ないわよ」と緑が言った。「おしっこはまだ大丈夫」
cああcと父親は答えた。
「ねえワタナベ君c私たち下の食堂にごはん食べに行かない」と緑が言った。
いいよcと僕は言ったがc正直なところ何かを食べたいという気にはあまりなれなかった。食堂は医者やら看護婦やら見舞い客やらでごったかえしていた。窓がひとつもない地下のがらんとしたホールに椅子とテーブルがずらりと並んでいてcそこでみんなが食事をとりながら口ぐちに何かをしゃべっていて――たぶん病気の話だろう――それが地下道の中みたいにわんわんと響いていた。ときどきそんな響きを圧してc医者や看護婦を呼び出す放送が流れた。僕がテーブルを確保しているあいだにc緑が二人分の定食をアルミニウムの盆にのせて運んできてくれた。クリームコロッケとポテトサラダとキャベツのせん切りと煮物とごはんと味噌汁という定食が病人用のものと同じ白いプラスチックの食器に盛られて並んでいた。僕は半分ほど食べてあとを残した。緑はおいしそうに全部食べてしまった。
「ワタナベ君cあまりおなかすいてないの」と緑が熱いお茶をすすりながら言った。
「うんcあまりね」と僕は言った。
「病院のせいよ」と緑はぐるりを見まわしながら言った。「馴れない人はみんなそうなの。匂いc音cどんよりとした空気c病人の顔c緊張感c荷立ちc失望c苦痛c疲労――そういうもののせいなのよ。そういうものが胃をしめつけて人の食欲をなくさせるのよ。でも馴れちゃえばそんなのどうってことないのよ。それにごはんしっかり食べておかなきゃ看病なんてとてもできないわよ。本当よ。私おじいさんcおばあさんcお母さんcお父さんと四人看病してきたからよく知ってるのよ。何かあって次のごはんが食べられないことだってあるんだから。だから食べられるときにきちんと食べておかなきゃ駄目なのよ」
「君の言ってることはわかるよ」と僕は言った。
「親戚の人が見舞いに来てくれて一緒にここでごはん食べるでしょcするとみんなやはり半分くらい残すのよcあなたと同じように。でねc私がぺロッと食べちゃうとミドリちゃんは元気でいいわねえ。あたしなんかもう胸いっぱいでごはん食べられないわよって言うの。でもねc看病してるのはこの私なのよ。冗談じゃないわよ。他の人はたまに来て同情するだけじゃない。ウンコの世話したり痰をとったり体拭いてあげたりするのはこの私なのよ。同情するでけでウンコがかたづくんならc私みんなの五十倍くらい同情しちゃうわよ。それなのに私がごはん全部食べるとみんな私のことを非難がましい目で見てミドリちゃんは元気でいいわねえだもの。みんなは私のことを荷車引いてるロバか何かみたいに思ってるのかしら。いい年をした
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